死神と逃げる月
□全編
275ページ/331ページ
《How are you?》
「ストップ、ストーップ!」
目的地まであと少しというところで、彼は突然声を上げた。
ワゴンはグンと前方に揺れ、そして停車する。
「どうしたの」
「今、猫が」
「猫?」と先輩がリアガラスの向こうを覗き見る間に
彼はスライドドアを開け、路地に降り立った。
「ああ、良かった。無事です」
彼の視線の先にはビニール袋がひとつあり、風も無いのにガサガサと音を立てていた。
よく見れば確かに尻尾と、足らしきものも見えている。
「引っ掛かって出られなくなったのか?」
暴れるビニール袋を取り押さえ、そっと猫を出してやる。
猫は彼の顔を見てすぐに気付いた。
以前セールスマンをしていた男だ。
『あら…しばらくぶりだわね。ご機嫌いかが』
この猫、自棄になっているのだろうか。
自分の声を聞かれることに抵抗が無くなってきているようだ。
「お前、あのブティックの」彼も思い出した。
だいぶ前になるが彼はこの猫に、そう睨まれたのだ。
いや、蔑まれたと言った方が正しいだろうか。
『人は随分と変わるものね。猫を助けるなんて』
「自分でもそう思うよ」
元セールスマンの彼は空っぽのビニール袋を小さく丸めて、またワゴンに戻っていく。
もしかしたら、今の彼が本当の彼なのかもしれない。
『どちらにしても、人は変わるものだ』
猫のサチコは乱れた髭を整えながら、しみじみと呟いた。