死神と逃げる月

□全編
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《雪解け》




ずっと八百屋をしていると、季節の移り変わりがよく分かる。




通年出回る野菜も増えたが、もちろんそうでない物も沢山あるからだ。




三月に入ったこれからの時期、商店街に吹く風も次第に暖かくなり




そのうち蕗や筍が多く出回ってくるだろう。




それから、この八百屋は商店街のちょうど真ん中辺りに位置していて




向かいにはポストが立っていることもあり、人通りが割りと多い。




道行く彼らの服装からも、近づく春を感じることができた。




今もまた八百屋の前を若い女性が




ワンピースにジャケットを羽織ったくらいの軽装で通り過ぎる。




さすがにそれではまだ少し寒いのではないかと思うが




時折小さく跳んだり晴天を見上げたり、ご機嫌な様子だ。




「何か良いことでもあったのかい」




八百屋の主人が声をかけると、女性は会釈をしてから




いつもより少しだけ大きな声で言った。




「髪を切ってから、気分も軽くなって。体が浮くような気がするんです」




それは同じ商店街にある魚屋の一人娘。




しかし髪を切っただけで、そこまで変わるものだとは。




実際は他にも何か、彼女の憂鬱を晴らすような出来事があったのかもしれない。




「あれ。確か昨日もお休みじゃあなかったっけな」




魚屋の娘が二日続けて店番を休むなんて




珍しいこともあるものだ。
八百屋の主人は思った。




「雪が解けたので、沢山出掛けようと思って」




彼女はとても嬉しそうだった。




解けたも何も、このところは雪なんて降っていないのに。




文学少女なりの比喩表現だったのかもしれないが




八百屋の主人にそんな回りくどい言い方が通じる訳はない。




「そうかい。まあ何にしても元気そうで良かった」




行ってらっしゃい、と手を振る主人。




もう一度会釈をして、魚屋の娘は駅の方へ歩いていった。
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