死神と逃げる月

□全編
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《オムレツ》




「誰か、いるのか。こんな時間に」




ホームレスの男が目を覚ましたのは、ほんの小さな物音を聞いたからだ。




物音というより、囁きのようなものだったかもしれない。




狭苦しい根城から這い出すと、真っ暗な空にオムレツのような月が浮かんでいた。




「私は、返す人です」




公園の隅にある穴ぼこだらけの遊具の中か、それとも茂みの向こう側か。




何処から語りかけてきたのかは分からない。
その声には姿がなかった。




「俺を起こしたのは、あんたか。何の用だ」




「なくした物を持ち主にお返しするのが、私の仕事です」




なるほど、「返す人」とはそういうことか。




男はしばらく心当たりを探っていたが、確信した様子で答えた。




「返してほしい物なんてないよ。今が幸せさ」




それが予期せぬ返事だったと見え、姿なき声は




同じように少し考え込んでから、もう一度語りかける。




「それは嘘ですね。あなたは独りを寂しく感じている。だから私が招かれたのです」




確かにそうかもしれない。




あの真っ黒な男のせいで、このところ昔のことを思い返す機会が増えた。




その中で、この胸に未練が生まれた瞬間はあっただろう。




「ああ寂しいよ。寂しい。生きれば生きるほど寂しい。だが、それが人生というものさ」




それに。
男は付け加える。




「俺はもう、諦めているんだ。いや、受け入れているのかな」




その時の男の表情は、晴れ晴れとしていた。




試合には負けたけれど悔いのないプレーができた。




彼の好きな野球に例えるなら、そんな顔だろうか。




「喪失も寂しさも受け入れて、俺は今ここにいる。だから寂しいが返してほしいと思ったことはないよ」




「…どうやら、そのようですね」




落胆したような、安心したような。
小さな吐息が聞こえた。




「では彼女にも、そうお伝えしておきます」




そう言い残して声が消えると、夜の公園はしんと静まり返り




空には相変わらず、オムレツのような月が浮かんでいた。
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