死神と逃げる月

□全編
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《舞踏会》




「鳴ってるみたいだけど」




郵便配達夫の彼は、その小さな振動音に気付いた。




それは魚屋の娘が肩から提げたピンク色の鞄。




珍しく明るい色を身に付けた彼女は、郵便配達夫の彼と一緒に駅前のイルミネーションを




まるで舞踏会のようね、と眺めながら足取り軽やかに歩き




さあこれから電車で繁華街へ向かおう、というところだった。




「電話…」




彼女の鞄の中で、携帯電話が震えている。




悪い予感しかしなかった。




「…もしもし」




彼に聞こえないように、少し距離をとって




魚屋の娘はそっと携帯電話を耳にあてる。




「え……そんな、無理言わないでよ。今からなんて」




それは彼女がずっと逆らえなかった相手だ。




だけど、どうしても譲れない。
今日だけは。




「二人とも、いつも勝手すぎるよ!私にだって都合があるんだから!」




次第に声を荒らげているのは、自分でも分かっていた。




だけど決壊した堰を流れ出した心は、簡単には止められない。




そして。




「私がどれだけ我慢してきたか知らないでしょ!大体お母さんが入院なんかしなければこんなことには……!」




ああ。




ついに言ってしまった。




できるだけ綺麗な人間でいたくて、それだけは言うまいと




寡黙な娘を貫いてきたのに。




一番辛いのはお母さんのはずだって、分かっているのに。




「何かあった?」




心配そうに彼が見ている。




「あの…ごめんなさい……」




魔法が切れた時のシンデレラは、こんな気持ちだったのだろうか。




「私…帰ります。お店に戻らなくちゃいけなくなって。今日はありがとう。ごめんなさい」




魚屋の娘はイルミネーションの中を駆け抜けて走った。




彼女が去った後、夢見心地な街は誰のために舞踏会を続けるのだろう。
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