死神と逃げる月

□全編
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《暖かい》




冷たい雨が、音もなく降っていた。




部屋の中では分からず、窓や玄関を開けて初めて気付くような静かな雨。




雪の予報も出ていたが、この街にはまだ降らないらしい。




いや余りに静かすぎて、本当は少し降ったけれど気付かなかったのかもしれない。




「ちょっと待ってよ。話が違うじゃない」




こんな日は商店街も人通りが少なくて静かなのだが




その中で、珍しく魚屋の娘が大きな声を上げていた。




「この日は店番代わってくれる約束でしょ、1日くらいワガママ言ったって…」




誰かと電話をしているようだ。




入院中の母親か、その見舞いに通っている父親か。




「とにかく、私は予定があるの。もう変えられないからね」




電話を切ってからも彼女の表情は強張っていた。




もう話は通っていたはずなのに、どうして急に。




まさかお母さんの容態に何かがあったのだろうか。




だけどこの日は、とても大事な…




「どうしたんだい」




ちょうどその時、同じ商店街で八百屋を営んでいる主人が




何処かへ行く途中だったのだろうか、魚屋の店先に顔を覗かせた。




魚屋の娘は慌てて笑顔を作り、「どの魚をお買い求めですか?」と尋ねると




「最近は手紙を出さねえのかい?」




「え?」




手紙と言えば、もちろんあの物語のことだ。




自分から自分に宛てて、大好きな人の手によって届けられていたラブレター。




「いやほら、毎日のように見かけてたのが急に来なくなったもんだから。何かあったかと思ってさ」




確かに以前は毎日のように、八百屋の主人と顔を合わせていた。
ポストが八百屋の傍にあったから。




そんな些細なことなのに、気にかけて会いに来てくれたのかな。




「いえ…大丈夫です。何も」




「そうかい。まあ、せっかくだから晩飯のおかずを買って帰ろうかな」




この街は冬でも暖かい。




先ほどまでの不安は、いつの間にか小さくなっていた。
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