死神と逃げる月

□全編
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《目黒の秋刀魚》




「あら、ジュール・ヴェルヌですか?」




本当は、その魚屋に寄っていく予定ではなかったけれど




店番の娘が読んでいる本が目に止まり、日傘の女性は嬉しかったのだ。




「あ……いらっしゃいませ」




彼女は慌ててその本をしまう。




魚屋の前を通る時、日傘の女性はいつも思っていた。




彼女は、昔の自分に少し似ている気がする。




「その本。私も昔、読んだことあります」




病室で、退屈しのぎに。




きっと店番にうんざりしている彼女と、同じような表情で読んでいたことだろう。




小さな世界に囚われた日々。
そういう所が、少し似ている気がする。




「ああ…私こういうSF物は読まなかったんですけど、最近になって」




人って変わるものですね、と彼女は言う。




その通りだと思った。




日傘の女性を取り巻く環境も、ここ数年で随分と変わったし




なかなか懐いてくれないあの子との関係も、ようやく少し前進できたような気がしていた。




「やっぱり、今の時期だと秋刀魚かしら」




せっかくなので、何か買っていくことにしよう。




「そうですね。秋と言えば」




「目黒の秋刀魚が美味しいんでしたっけ」




「え…目黒?」




魚屋の娘は一瞬きょとんとして、すぐに笑い出した。




「ふふ…それ、落語ですよ。世間知らずなお殿様の話」




「あら、そうだったかしら」




それからまた、顔を見合わせて二人で笑った。




入院が長かったから、日傘の女性もだいぶ世間知らずだけれど




それはそれで楽しいもの。




毎日が新鮮な驚きに満ちている。
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