死神と逃げる月
□全編
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《出会えぬ者との出会い》
黒服の男は、ホームへ向かう下りエスカレーターに乗った。
今日はこれから地下鉄に乗ってみようと思う。
何処へ行くのかなんて風の吹くまま、細かいことは気にしない。
後ろで見知らぬ男が愚痴を垂れているが、そんなことも黒服は気にしない。
「大体さ、ただノルマを押し付けて競わせるなんて合理的じゃないんだよ。そう思うだろ」
何故なら、その愚痴は独り言だからだ。
「そう思うだろ」と人に呼びかけているように聞こえるが、彼の近くには黒服の男以外に誰もいない。
誰かと電話で話している訳でもない。
そして、彼が黒服の男に話しかけることは有り得ない。
「それより皆で情報共有して、会社全体の売上を上げていく方がよっぽどいいじゃねえか。なあ」
若いセールスマンらしき彼には、先ほどから黒服の男の姿が全く見えていないのだ。
つまり彼はずっと独り言を言っている。
黒服は、自分が人によって見えたり見えなかったりする存在であることは自覚していた。
死神に限らず神様というものは、おいそれと人に見られてはいけない。
ただ、どういう者にはその姿が見え、どういう者には見えないのか。
それは黒服自身にも分からない。
現にこの街に来てからというもの、彼は既に何人もの人間に目撃されているのだ。
「ああ、だから誰かいい方法教えてくんねえかなぁ。ちっとも売れやしない」
彼にどんな問題や葛藤があって愚痴っているのか、やはり黒服は気にしない。
けれど、もしかしたらこのセールスマンとも出会っていた可能性があるのかもしれないな。
ふと、そんなふうに考えた。
逆に、すれ違っていたのに自分が相手に気付かずに出会えなかったこともあったのかもしれない。
そうして黒服はまた、お気に入りの歌をセールスマンに聴こえない声で歌う。
「あ〜、出会いって〜、なんて愛おしい〜……」
エスカレーターを下りると、若いセールスマンは黒服とは逆の方向へ歩いて行った。