死神と逃げる月

□全編
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《家出》




「タクスィ」




何処からか声が聞こえた。




歩道に顔を向けるが、手を挙げている人は見当たらない。




ジョギングをしたり犬の散歩をしたり




それぞれに日課をこなす姿ばかりだ。




「こっちだ、タクスィ」




この妙な発音の呼び止め方は、あの男だろう。




タクシーの運転手は反対側の歩道に目をやる。




浄水場の脇のところで、小太りの男が手を振っていた。




「ちょっと乗せてってくれないか」




彼は駅前の公園に住んでいる、ホームレスの男だ。




駅からは随分離れているが、こんな場所で何をしているのだろう。




運転手は答えるために窓を開ける。
風はもう、すっかり秋の匂いだ。




「乗るんですか?お代は大丈夫?」




「ああ、いや俺じゃないんだがな」




そう言えば、その公園で催されたお祭りで運転手は数十年ぶりにドラムを叩いていた訳だが




服装が違うせいか、誰からも気付かれなかったのが切ない。




「あの坊主だ。どうも家出したらしくてな。送り届けてやってくれないか」




そう言って指を差すが、タクシーのある場所からは茂みの陰になって見えない。




しかし家出というよりこれは、迷子なのではないだろうか。




「家無しの面倒は見てるけどよ、さすがに将来のある子供まで引き取る訳にはいかないからな」




言いながら男は自分で笑っている。




迷子なら交番に届けるべきだろう。




そんなふうにも思ったが、こういうハプニングも悪くない。




日常の中には、寄り道や回り道があった方がいいさ。




「ここはUターン禁止なんでね。一度向こうから回ってきます」




運転手はジェスチャーを加えながらそう告げて、窓を閉めると




「回送」の表示に切り替えて、アクセルを踏んだ。
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