死神と逃げる月

□全編
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《海岸にて・2》




黒服の男は海岸に向かっていた。




そこは嘘吐きなあの子と最後に会った場所。




日常の何気ない瞬間に黒服は、あの子のことを思い出し




足が自然と、この場所へ向かってしまうのだ。




もちろん彼女がもうこの街にいないことも、分かっているのだが。




「や、あれは」




砂浜に下りると、眼鏡をかけた茶髪の女性が海を眺めていた。




彼女はこの近くに住んでいる漫画家だ。




以前ここで見かけた時は確か、ビールの缶が転がっていたが




今日は酔っている様子もなく、悪態も吐いていないと見える。




しかし相変わらず、黒服の姿は見えていないらしい。




「る〜、るる〜」




小さな声で鼻歌を歌っていた。




もしかして、彼女こそが




始まりを探す彼女の手紙にあった、鼻歌の主か。




黒服は耳をそばだてる。




「ふるさと〜、帰らないぜ〜」




いや、どうやら曲が違ったようだ。




かなりデタラメな歌詞のようだし、即興で適当に歌っているだけかもしれない。




「さて、戻ったらもうひと踏ん張り、描くかね」




彼女は海に背を向け、ドールハウスのような自宅へと歩き出した。




ずっと仕事の無かった彼女だが、最近はまた漫画を描いているらしい。




「このままじゃ〜、終われるか〜」




先ほどより少し大きな声で歌った。




歌うというより、自分に言い聞かせているようだった。




「歌うがいいさ。蝉のように。命ある限り」




呟いてから黒服も鼻歌を歌い始めた。




人生はなんて素晴らしい。




生きるってなんて美しい。




出会いってなんて愛おしい。




そんな歌を。
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