死神と逃げる月

□全編
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《魚屋の手紙・3》




海の方から、暖かい風がさわさわと流れ込む。




トンボが数匹、その風に乗って漂っている。




郵便配達夫の彼も風に吹かれながら、街を歩いていた。




魚屋の娘から渡された手紙は、中世のヨーロッパを思わせる世界観と




非現実的なキャラクターたちが入り乱れる、童話のような物語だった。




主人公は「囚われのお姫様」。




お城の西側に建てられた塔から、街の様子を羨ましそうに眺めて暮らしている。




その、塔の格子窓から見た街の風景や人々の暮らしが




ストーリーとして綴られているのだ。




「しかしこれじゃあお姫様はずっと、この塔の部屋から出ることができないな」




そんなお姫様と唯一、関わりを持っていたのが「竜の騎士」だ。




定期的に塔を訪れ、格子の隙間から月の欠片を渡す。




輝く欠片は次第に部屋を埋めていき、やがて大きな月が完成する。




すると黒魔術師のかけた、塔の扉の魔法が解け




その時に初めて、「放浪の画家」が扉を開けるのだ。




『見たことのない光。私は窓から漏れたそれに誘われて来たのです』




こんなところに閉じ込められて、と画家はお姫様を哀れみます。




『あなたをここから逃がしましょう。さあ、竜の騎士は向こうの山に』




初めて塔を抜け出し、裸足で踏みしめた森の道。




足元を月に照らされながら、お姫様は走り続けます。




そしてとうとう竜の騎士のもとに辿り着き、伝えるのです。




『あなたともっと、お話がしたいです』




そこで物語は閉じられた。




「心地よいお話だな」




しかし魚屋の娘はどうしてこれを自分に渡したのだろう。




配達夫が考え込みながら歩いていると、民家の庭先に大きな犬が繋がれているのが見えた。




この辺りも配達で回っているからよく知っている。
あれはハナという名前の犬だ。




物語に出てくる優しい怪物みたいに、毛むくじゃらで温かそうだ。




その時はただそう思っただけで、配達夫はまた風に吹かれて歩いていった。
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