死神と逃げる月

□全編
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《林檎・5》




玄関のドアの閉まる音がした。




あの子が帰ってきたんだわ。




その足音にそっと耳を傾ける。




家の外からは蝉の大合唱が聴こえていた。




小さな足音は一直線に階段を上り、2階の部屋へと入っていく。




「おかえりなさい」




リビングを出た私は、階段の下から声をかけた。




返事はない。




いつものこと。
私はあの子に嫌われているのだから。




やっぱりダメね。
私なんかがお母さんになろうなんて。




「林檎ならいらないです」




ゆっくり階段を上がっていくと、その気配を察したのか、ようやくあの子の声がした。




たったそれだけの言葉でも、声が聞けただけで嬉しくなってしまう。




「違うのよ。ちょっとだけお話がしたくて」




やっぱり返事はなかった。




それでも、今考えていることを伝えてみたい。




「林檎を剥くのは、もうやめにするわ」




好物だと聞いていたから、いつかは食べて欲しかったけれど。




「私があなたのお母さんにならなくちゃって、そう思って真似ばかりしてたの」




でもそれはただの、自己満足だったのかもしれなくて。




「あなたにとっては、無理やりお母さんの席を奪おうとする悪者だったのよね」




小さなヒーローを苦しめていた一番の悪者は、きっと私だったんだ。




「もう、お母さんを忘れさせようとはしないわ」




いくら真似をしてみたって、本当のお母さんにはなれないけれど




私は私なりに、この子と接していけたなら。




本当のお母さんがしていたことをなぞるんじゃなく




反対に、この子に対して出来なかったことを




私が代わりにしてあげられたなら。
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