死神と逃げる月
□全編
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《通院》
八百屋の主人は近頃、店を休む日が少し増えた。
事情は知れ渡っているし、彼は商店街の人気者だ。
心配こそすれ、腹を立てる者は誰もいない。
店を休む理由は再結成したバンドのリハーサルと
以前救急車で運ばれた肺疾患の通院治療のためである。
「安定してますよ。ちゃんと禁煙は続けてるみたいだね」
「意外とやれば出来るもんで」
テストで良い点を取った子供のように胸を張る。
「治った訳じゃないんだからね。無理は禁物ですよ」
医者は最後にもう一度、強く念を押した。
分かっている。
少し走るだけでも息が切れるのだ。
もちろん薬はきちんと飲んでいるし、そのおかげで以前と変わりない生活を送れているが
肺の機能が劇的に回復するようなことは、もう無いのだそうだ。
だからと言って、大人しく最期を迎えるなんてことはしたくない。
一度死を覚悟したからこそ、今は悔いの無いように生きたいんだ。
「ですからね、眠らなくても疲れない薬なんて無いんですよ」
八百屋の主人が会計を待っていると、ロビーの隅から小さな話し声。
白衣を着た男性と、眼鏡の女性が言い合っている。
「あったとしても、そんなものは毒にしかならない。体も心もボロボロになってしまうんです」
「でも描かなくちゃいけないんです。寝る時間も惜しくて」と女性は食い下がる。
「何かに切羽詰まっているんでしょうけど、健康あっての人生ですよ」
色々な事情や病気を抱えた人が、一緒くたになって座っている。
形も色もバラバラの野菜が並べられた八百屋に、少し似ているような気がした。