死神と逃げる月
□全編
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《魔法の呪文》
出発の前の日、写真好きの彼には
行っておきたい場所があった。
会っておきたい相手がいた。
夏の活気に充ちた駅前通り。
宝くじ売場の近くには、新しく花屋ができたらしい。
彼が旅から帰る頃、また少し街並みも変わっていることだろう。
写真好きの彼は、とある店の前にしゃがみ込む。
「君にも挨拶して行かなくちゃね。べっぴんさん」
そう、会いたい相手というのはブティックの猫だ。
一目見た時から、真っ白で清楚な彼女のファンになってしまって
時間のある日は必ず、その姿を拝みに来たものだ。
「君にも分かるかい。いや分からないだろう。この僕の、胸の高鳴りが」
そう言いながらまたシャッターを切る。
心無しか、猫の表情も少し気取っているように見えた。
「帰ったらまた君にも見せてあげるよ。旅先で出会った人たちの表情や景色をね」
『どうすれば、あなたのような綺麗な写真が撮れるのかしら』
気のせいだろうか。
誰かにそう尋ねられた気がした。
それは今まさに夢へと踏み出そうとしている彼に、覚悟を問いかけているようにも思えた。
「シャッターを切る瞬間、心の中で唱えるんだ。『時間よ止まれ』ってね」
『時間よ止まれ…?』
「フィルムに時間を閉じ込める、魔法の呪文さ」
魔法だなんて非科学的な。
猫は訝しげにあくびをした。
小さなリボンのついた尻尾は、まるで彼に手を振るように揺れている。