死神と逃げる月

□全編
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《あの時の黒》




ほんの気まぐれではあるが




写真好きの彼は今日、父親が営む八百屋の手伝いをした。




退院後の父親はまた元通り、景気のいい声を響かせて




息子の方も相変わらず、ふらふらと写真を撮り歩く日々なのだが




この親子の関係には少し変化があったようだ。




人生、何がきっかけになるか分からない。




「そう言えばよぉ」




八百屋の主人は急に思い出したことがあった。




「倒れて病院に運ばれて、まだ意識がハッキリしていなかった時のことなんだけどよ」




「うん」




写真好きの彼はブロッコリーを丁寧に並べている。




やはり視覚的な部分には、こだわりがあるようだ。




「誰かが耳元で囁いたような気がするんだよなあ」




「誰かって、誰が」




「それが分かんねぇのよ」




ありゃ知ってる声じゃなかったと思うなあ、と八百屋の主人は記憶を探る。




「で、何て言われたの?」




「“安心しなよ。あんたの寿命はまだ先だ。この機会に一度ゆっくり体を休ませるといい”ってな」




まさかおめぇじゃないだろうな、と八百屋の主人は苦々しく笑った。




「知る訳ないじゃないか。夢でも見たんだよ」




言いながら写真好きの彼には心当たりがあった。




あの時、病室から出てきた黒い影。




もしかしたら、あれが囁いたのかもしれない。
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