死神と逃げる月
□全編
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《蝙蝠傘の彼女》
その日、日傘の女性は駅前の公園にいた。
早くも夏を感じさせる強い陽射しが降り注いでいる。
それなのに、どことなく寂しい空気が街を包んでいるような気がした。
それは今の彼女の心の有り様が影響していたのかもしれない。
「大丈夫。あの子もいつかは心を開いてくれるわ」
前向きな言葉を発していても、表情は自ずと暗くなってしまう。
「ああお嬢さん、ダメだよ。公園では楽しく過ごさなきゃ。ほら、笑うといい」
顔を上げると、いつの間にか目の前に男が立っていた。
公園に住み着いているホームレスらしい。
言葉の通り、金歯を光らせながら彼は笑っている。
綺麗な笑顔ではないけれど、女性も不思議と釣られて笑いそうになる。
「ごめんなさい。そうですね」
「あんた、ちょっと似てるな」
「誰にですか」
その誰かを思い出したのか、男はまた口を開けて笑った。
「若い頃に惚れた女だよ。いつもあんたみたいに浮かない顔をしていた。彼女は日傘じゃなく、蝙蝠傘だったけどな」
あれはまだ現役の頃だったな。
男は隣に座って話し始める。
「現役というと?」
「野球さ。スポーツは興味ないかね」
「運動は苦手で。でも見るのは好きです」
けれど野球はルールが複雑だから、この女性にはよく分からないのだ。
「まあともかく若い時分に知り合ったんだが、雨女だったのかな。いつも真っ黒な傘を差してたのを覚えてるよ」
そう言えば彼女は髪も服装も真っ黒だったなあ。
男はそう言い加えた。
ひとつずつ確かめるように、口に出しながら思い出しているようだった。
「そうだなあ。苦しい時期ではあったけど、振り返ってみるとあの頃が一番幸せだったのかもしれないな」
遠い目をする男を見ながら、日傘の女性は思った。
俯いている今の私のことも、苦しいけれど幸せだったと思える日が来るのだろうか。