死神と逃げる月

□全編
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《お見舞い》




八百屋の主人が病室に戻った時、ちょうど見舞い客が来ていた。




しかし椅子に座った若い女性の後ろ姿に、一瞬部屋を間違えたかと名札を確認する。




町内会の連中や息子なら来たけれど、こんな若い女性の知り合いがいただろうか。




「あ、こんにちは」




女性は振り返って立ち上がる。
小さな花束を持っている。




「ああ、誰かと思ったら」




彼女は同じ商店街の魚屋の娘さん。




息子と同級生だったこともあり顔見知りではあったが、まさか見舞いに来てくれるとは。




「勝手にお邪魔してすみません。呼んでくるから中で待っててと、看護師さんが」




「いや、それは悪かった。ちょっと一服しにね」




「え?だって煙草は」




「いや冗談冗談」




そんなことしたらガタイのいい看護師さんに張っ倒されちまう。




そう言って彼はお茶目に笑う。
こういうところが商店街で愛されている理由なのだろう。




「音楽なんて、されるんですか?」




魚屋の娘は、花束の花を花瓶に移しながら尋ねた。




「ああ、これのことかい。いや若い頃ちょっとやってただけなんだが」




そのエレキギター、夢を諦めた日に捨てたと思っていたけれど記憶違いだったらしい。




しかし一体どこに仕舞ってあったのか。
多分息子が見つけて持って来てくれたんだろう。




「間もなく退院だから、またちょっとやってみようかねえ。昔のバンド仲間集めてさあ」




「わあ素敵。その時は是非聴きに行きたいです」




そりゃ張り切って練習しなきゃあ。
八百屋の主人はまた笑った。




遠くから救急車のサイレンが聴こえ、病院が少し慌ただしくなる。




「あれは私らの街の方じゃないかな。救急車で運ばれるなんて、誰か大きな病気でもしたんだろうか」




自分もあんなふうに担ぎ込まれてきたんだな。




早く家に帰りたい、店を開けたい。
彼は今とにかくそう思っている。
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