死神と逃げる月
□全編
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《スケッチ》
郵便配達夫の彼は、黒服の男を探して河原の方までバイクを走らせた。
海が近いので、川幅が広く流れも穏やかだ。
こんな場所で春の陽気に包まれたら、さぞ寝心地の良いことだろう。
「すみません」
黒服の姿が見当たらないので、ちょうど近くにいた女性に訊いてみることにした。
女性はスケッチブックを抱くように持って、一心不乱にペンを走らせている。
どうやら写生中のようだが、そのスケッチのどこかに黒服が紛れ込んでいないだろうか。
「あの、すみません。真っ黒な服装の、黒助さんという人を探してるんですが」
女性が返事をしないので、再び呼びかける。
「うるさい。気が散るから」
「あ、すみません」
そんなに真剣に、何を描いてるのかな。
郵便配達夫は土手の上から覗き込んでみた。
女性は黒のペン1本だけを使って、素早く線を乗せていく。
スケッチブックに描かれていたのは対岸の木々だった。
「それ、桜ですか?」
「これが電柱に見えるのかよ」
線のハッキリした漫画風の絵だから、描いてある物がよく分かる。
確かに対岸は桜並木になっているのだが、しかし花は。
「まだ、咲いてないみたいですけど」
女性は振り向く。
顔を見て気付いた。
海辺の家に住んでいる人だ。
「あ、そう。近視と乱視が酷くてね。結構咲いてるように見えたんだけど」
そろそろ眼鏡を作り直そうかな、と女性は言った。
「でも綺麗な絵ですね」
春が好きな郵便配達夫は、見間違いでも桜が咲いている方がいいやと思った。