死神と逃げる月
□全編
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《宝物》
「こんばんは」
深夜の病室、八百屋の主人はうつらうつらと眠りの淵を漂っていた。
だから、その声もすぐには彼の耳に届かなかったようだ。
「失礼します。お休みのところ、すみません」
二度目の呼びかけでようやく八百屋の主人は、誰かが傍にいるのだと気付く。
しかしやはり瞼は重く、その人物の姿を捉えることはできなかった。
深夜の病室は異常なほどに静かだ。
声は優しく囁くように語りかけるが、言葉はハッキリと浮かび上がって聞こえた。
「私は返す人です。なくした物をお返しするのが私の仕事です。あなたの宝物を返しに来ました」
「宝物だって?」
八百屋の主人は訊き返した。
いや訊き返したつもりになっていただけで、口はただ寝息を立てていたのかもしれない。
「捨ててしまった物は、お返しする必要がありません。あくまで本来その人の所有物であるはずの物をお返しする…そういう役目なのです」
自分の仕事について律儀に説明しているらしい。
こんな時間まで仕事とは、働き者で結構なことだ。
八百屋の主人は相当寝ぼけていたのだろう、そんなことを考えていた。
「一旦は捨てられたのかもしれません。しかしあなたは自分の夢を思い出されました。もう一度、という想いが芽生えた以上これはあなたの物です」
夢。
そう、これはきっと夢なのだ。
それにしても、また変な夢を見たものだな。
「お返しします」
そう言ったのを最後に、声は聞こえなくなった。
八百屋の主人はまた眠りの淵を漂い始める。
だからまだしばらくは、奇妙な夢を見たと思っていることだろう。
朝、目を覚まして彼がベッドの脇に
覚えのあるステッカーが貼られた、エレキギターを見つけるまでは。