死神と逃げる月

□全編
162ページ/331ページ

《宝物》




「こんばんは」




深夜の病室、八百屋の主人はうつらうつらと眠りの淵を漂っていた。




だから、その声もすぐには彼の耳に届かなかったようだ。




「失礼します。お休みのところ、すみません」




二度目の呼びかけでようやく八百屋の主人は、誰かが傍にいるのだと気付く。




しかしやはり瞼は重く、その人物の姿を捉えることはできなかった。




深夜の病室は異常なほどに静かだ。




声は優しく囁くように語りかけるが、言葉はハッキリと浮かび上がって聞こえた。




「私は返す人です。なくした物をお返しするのが私の仕事です。あなたの宝物を返しに来ました」




「宝物だって?」




八百屋の主人は訊き返した。




いや訊き返したつもりになっていただけで、口はただ寝息を立てていたのかもしれない。




「捨ててしまった物は、お返しする必要がありません。あくまで本来その人の所有物であるはずの物をお返しする…そういう役目なのです」




自分の仕事について律儀に説明しているらしい。




こんな時間まで仕事とは、働き者で結構なことだ。




八百屋の主人は相当寝ぼけていたのだろう、そんなことを考えていた。




「一旦は捨てられたのかもしれません。しかしあなたは自分の夢を思い出されました。もう一度、という想いが芽生えた以上これはあなたの物です」




夢。




そう、これはきっと夢なのだ。




それにしても、また変な夢を見たものだな。




「お返しします」




そう言ったのを最後に、声は聞こえなくなった。




八百屋の主人はまた眠りの淵を漂い始める。




だからまだしばらくは、奇妙な夢を見たと思っていることだろう。




朝、目を覚まして彼がベッドの脇に




覚えのあるステッカーが貼られた、エレキギターを見つけるまでは。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ