死神と逃げる月
□全編
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《福の神》
昨日の雨で、公園のベンチはまだ少し濡れていた。
けれど若いセールスマンは、スーツのお尻を躊躇なくそこに乗せる。
昼間から手には缶ビール。
「おう。最近よく見かけるな、兄ちゃん」
ホームレスの男が、ニヤニヤしながら話しかけてきた。
それを面倒に思う気持ちより、誰でもいいから今の自分を聞いてほしいという欲求が勝る。
「辞めたんです」
「何をだい」
「会社、辞めたんです。今日」
そういうことらしい。
だから、この時間に酒を呑もうが公園でボーッと水溜まりを眺めて過ごそうが、誰からも咎められはしないのだ。
「そりゃあ結構」
「何が結構なもんか」セールスマンは苛立っている。
いや、今は元セールスマンだ。
「だって辞めたくて自分の意思で辞めたんだろう。働きたいのに首を切られるより、よっぽど結構なことじゃねえか」
「屁理屈だ。ホームレスなんかに説教されたかないよ。惨めになってくる」
「いや本当さ。首になる方がよっぽど惨めだぜ」と男は食い下がった。
自らが「戦力外」と通告された野球選手時代を、思い返しているのかもしれない。
「…福の神だったのかなあ」
元セールスマンの彼は呟いた。
独り言というよりは、わざと男に聞こえる声で言ったようにも思えた。
「すげぇお人好しの婆さんがいたんだよ。しかも婆さんが買ってくれた商品は不思議とその後よく売れたんだ」
それが近頃は、どの商品もパッタリと売れなくなってしまった。
渋い顔をしながら一気にビールを呑み干す。
「ああ、あの人はもしかしたら俺にとっての福の神様だったのかもしれないな。それなのにちゃんと大事にしなかったから、老婆心につけこんで騙すようなことをしたから罰が当たったんだ。きっとそうだ」
へえ、と相槌を打ち鳴らし、男は元セールスマンの隣に座って言う。
「これからどうすんだい。面倒見てやろうか」
「冗談じゃない」元セールスマンはベンチを立った。
俺はまだそっちへは行かない。
必ずやり直してみせる。