死神と逃げる月

□全編
153ページ/331ページ

《黒服宛》




もうすぐ春が来る。




郵便配達夫の彼は毎年この時期が一番好きだった。




早く街の人たちに、春を告げる手紙を届けたい。




郵便局の脇のイチョウ並木坂を下り、神社の前を横切って海辺のカーブから駅前の方まで




冬眠から目覚め始めた街をぐるっと、手紙を配達して回るのだ。




それを想像するだけで彼は、胸の奥が温まっていくのを感じる。




「郵便屋さん」




その日も配達を終えて、街角に小さい春を探しながら郵便局まで戻ろうとしていた時だ。




誰かに呼び止められたので、彼はバイクを路肩に停めた。




「僕に何か」




その人物、不思議なことに顔や身なりは全く覚えていない。




ただ手には封筒を持っていて、それを配達夫に渡そうと呼び止めたようだった。




「どうか、これも配達してください」




「これもって……ああダメですよ、これじゃ」




その封筒には切手が貼られていない。




それにどうやら、住所も書いていないようだ。




「分かっています。私はこれをある方に返すよう言いつかりました。ただ」




何とも申し訳なさそうに、自分でもどうしたものか判断に困っている様子で言葉を続ける。




「私は「返す人」です。返すのは確かに私の仕事です。しかしやはり、手紙の配達はあなたの仕事なのではないかと思うんです」




何を言っているのか、よく分からない。




が、何にせよ宛先が分からないことには。




「えっ」




封筒に書かれた名前を見て配達夫は驚いた。




ただ3文字、「黒服宛」とあったのだ。




「ちょっと待ってください。この黒服というのは……」




しかしもう一度顔を上げた時には、その人物の姿は無くなっていた。




「よろしくお願いします」




最後に何処からか声が聞こえ、郵便配達夫の手には封筒だけが残されていた。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ