死神と逃げる月
□全編
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《黒服宛》
もうすぐ春が来る。
郵便配達夫の彼は毎年この時期が一番好きだった。
早く街の人たちに、春を告げる手紙を届けたい。
郵便局の脇のイチョウ並木坂を下り、神社の前を横切って海辺のカーブから駅前の方まで
冬眠から目覚め始めた街をぐるっと、手紙を配達して回るのだ。
それを想像するだけで彼は、胸の奥が温まっていくのを感じる。
「郵便屋さん」
その日も配達を終えて、街角に小さい春を探しながら郵便局まで戻ろうとしていた時だ。
誰かに呼び止められたので、彼はバイクを路肩に停めた。
「僕に何か」
その人物、不思議なことに顔や身なりは全く覚えていない。
ただ手には封筒を持っていて、それを配達夫に渡そうと呼び止めたようだった。
「どうか、これも配達してください」
「これもって……ああダメですよ、これじゃ」
その封筒には切手が貼られていない。
それにどうやら、住所も書いていないようだ。
「分かっています。私はこれをある方に返すよう言いつかりました。ただ」
何とも申し訳なさそうに、自分でもどうしたものか判断に困っている様子で言葉を続ける。
「私は「返す人」です。返すのは確かに私の仕事です。しかしやはり、手紙の配達はあなたの仕事なのではないかと思うんです」
何を言っているのか、よく分からない。
が、何にせよ宛先が分からないことには。
「えっ」
封筒に書かれた名前を見て配達夫は驚いた。
ただ3文字、「黒服宛」とあったのだ。
「ちょっと待ってください。この黒服というのは……」
しかしもう一度顔を上げた時には、その人物の姿は無くなっていた。
「よろしくお願いします」
最後に何処からか声が聞こえ、郵便配達夫の手には封筒だけが残されていた。