死神と逃げる月

□全編
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《切手を買わなくちゃ》




忘れていた。




春だからと、せっかく桜の模様の便箋も用意したんだけど。




こないだ手紙を出した時に、切手を使いきってしまったんだ。




ああ切手を買わなくちゃ。




時々こうやって郵便局へ行くから、窓口のお姉さんにも覚えられてしまったな。




「あら、魚屋さんとこの。いつもの切手シートですね」




何も言わなくてもそんな感じ。




今日もあのお姉さんかしら。




私ちょっと苦手かも。
そもそも人と話すこと自体あまり得意じゃない。




なんてボンヤリ考えていたら、郵便局の前で何かがこちらを見ているのに気付く。




「あ、犬」




大きな犬。
大きな犬が郵便局の前のガードレールにロープで繋がれている。




普段、死んだ魚ばかり見ているせいか、大きくて毛むくじゃらの生き物はとても愛らしかった。




きっと外で飼われているのね、人に慣れていて簡単に触らせてくれたわ。




首輪のプレートには「HANA」と名前が刻まれている。




「あなた、飼い主さんを待ってるの?」




犬は何も答えず、ただハッハッと息をしている。




何だかちょっと、似ているような気がした。




本当は言いたいことが沢山あるのに何も言えないで




毎日毎日、魚屋の店番をしながら




お母さんの帰りや、手紙を運ぶ郵便屋さんや




何かが変わる瞬間をずっとずっと待ち続けている自分。




そんな自分と、ロープで繋がれて飼い主を待っているこの犬が、何となく似ているような気がした。




この犬のロープを外して逃がしてやったら、私もこの毎日から抜け出せるだろうか。




なんて、そんな根暗な妄想してる場合じゃなかったわ。




さあ切手を買わなくちゃ。




桜の模様の手紙を出すんだから。
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