死神と逃げる月
□全編
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《おでん》
冬の寒い夜におでんの屋台を見つければ、つい引き寄せられてしまうものだ。
それは死神も同じこと。
「あと玉子、それから餅巾着も頼む」
「お客さん最近毎日だねぇ」屋台の店主が親しげに話しかけてくる。
黒服の男はおでん種が沈んだ出汁のプールを割り箸で指し、これがあるからねと言わんばかりに笑みを浮かべた。
「…俺も巾着が食いてぇな」
離れて座っていた先客の若い男が呟く。
「はいよ、巾着ね」と店主は返事をした。
若い男はくたびれたスーツの上にコートを着込み、「夏も苛酷だが冬はもっと辛いよ」と愚痴を言い
同じその口で出汁の染みた大根を噛み砕いていく。
「なあ、あんた。仕事は何やってんだ」
酔っているらしい。
「こんばんは」の挨拶もなく、初対面の黒服に絡み始めた。
いや一度会っているはずだが、その時は黒服の姿が見えなかったのだ。
「…人が死んで儲かる仕事さ」
黒服が面倒臭そうに答えると、「ああ葬儀屋か」と若い男はがんもの味見に取りかかった。
「それなら需要は安定してんだろうな。俺は歯牙ないセールスマンさ。売れもしない商品を売りつけるのが仕事だ」
自分を卑下しながら笑っている。
そんなでは、おでんも不味くなるだろう。
「そうだ。あんた葬儀屋なら知ってるか」
セールスマンは突然何かを思い出したように黒服の男に尋ねた。
「裏通りの、紫陽花の家に住んでる婆さんさ。毎日バス停まで散歩してるって話だったけど見かけないんだ」
「訪ねてみればいい」
「それが出来ないから訊いてるんだろ」
「亡くなったよ。昨年の暮れだ」
黒服の男は葬儀屋ではないが、あの独り暮らしのお婆さんのことなら知っている。
あるセールスマンに謝っておいてほしい、とお婆さんから頼まれてもいた。
しかし今夜の彼は酔っている。
伝えるのは別の機会にした方が良さそうだ。
「……そうか、やっぱり。あの婆さん死んだのか。そうか」
それからセールスマンは何も言わなくなり、目の前に置かれた餅巾着をただじっと見つめていた。