死神と逃げる月

□全編
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《私服と自転車》




「こんにちは」




店の前に自転車を停めて、まるでもう春が来たかのように明るい声で




見たことのない男の人が、そう呼びかけている。




「いらっしゃいませ」




また誰かがこの街に引っ越してきたのかな。
魚屋の娘は当然そう考えた。




しかし彼は並んでいる魚を品定めするでもなく、娘に会釈をするばかり。




何だろう。
おかしな人だわ。




「あれ、もしかして僕のこと分かりませんか?」




「え?」




「ほら、いつも郵便配達に来ている」




言われて彼女は、あまり取り乱すことのない大人しい彼女にしては珍しく




しゃっくりをした時のように、大きく驚いた。




「あっ、やだ私ったら。ごめんなさい」




「ははは。いや、普段と格好が違うからね」




白い息を吐き出しながら、陽気に笑う彼。




いつもの彼は郵便配達夫の制服にヘルメット、自転車ではなくバイクに跨がっている。




私服だと印象がだいぶ違って、何だか急に友達になったみたい。




髪の毛も思っていたより長くて少しワイルドに見えた。




「ほら、前に言ってたじゃないですか。そのうち買いに来るって」




「ああ、それで」




そんな約束をしたのは、初夏の頃じゃなかっただろうか。




時間が経ちすぎて、魚屋の娘はもうすっかり忘れていた。




「毎日のように会ってるのに、私どうしてすぐ気付かなかったんだろう」




何度も何度も呟きながら、彼女は赤くなった顔を伏せた。




脇に置かれた鯖と目が合う。




恥ずかしがる彼女を見て、郵便配達夫の彼はますます楽しそうに笑った。
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