死神と逃げる月
□全編
144ページ/331ページ
《私服と自転車》
「こんにちは」
店の前に自転車を停めて、まるでもう春が来たかのように明るい声で
見たことのない男の人が、そう呼びかけている。
「いらっしゃいませ」
また誰かがこの街に引っ越してきたのかな。
魚屋の娘は当然そう考えた。
しかし彼は並んでいる魚を品定めするでもなく、娘に会釈をするばかり。
何だろう。
おかしな人だわ。
「あれ、もしかして僕のこと分かりませんか?」
「え?」
「ほら、いつも郵便配達に来ている」
言われて彼女は、あまり取り乱すことのない大人しい彼女にしては珍しく
しゃっくりをした時のように、大きく驚いた。
「あっ、やだ私ったら。ごめんなさい」
「ははは。いや、普段と格好が違うからね」
白い息を吐き出しながら、陽気に笑う彼。
いつもの彼は郵便配達夫の制服にヘルメット、自転車ではなくバイクに跨がっている。
私服だと印象がだいぶ違って、何だか急に友達になったみたい。
髪の毛も思っていたより長くて少しワイルドに見えた。
「ほら、前に言ってたじゃないですか。そのうち買いに来るって」
「ああ、それで」
そんな約束をしたのは、初夏の頃じゃなかっただろうか。
時間が経ちすぎて、魚屋の娘はもうすっかり忘れていた。
「毎日のように会ってるのに、私どうしてすぐ気付かなかったんだろう」
何度も何度も呟きながら、彼女は赤くなった顔を伏せた。
脇に置かれた鯖と目が合う。
恥ずかしがる彼女を見て、郵便配達夫の彼はますます楽しそうに笑った。