死神と逃げる月
□全編
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《貧血》
タクシーの運転手がブレーキをかけたのは、その女性が手を上げていたからではない。
むしろ女性は、しゃがみ込んで額の辺りを押さえていた。
普通なら気付かずに通り過ぎていたかもしれないが、女性の差している日傘が運転手の目を引いたようだ。
「大丈夫ですか?どこか具合でも」
助手席側の窓を開け、女性に呼びかける。
「いえ……ちょっと貧血を」
女性の声は低く落ち着いていた。
運転手は車から降りると、後部座席のドアを開けてからまた女性に話しかけた。
「ご自宅まで送りましょう。体調が優れないようなら病院でもいい。なに、病人からお金はいただきませんよ」
「悪いですわ」
「構いません。さあ」
すると女性も「それでは」とタクシーに乗り込んだ。
そう言えば、その日傘に何となく見覚えがあった。
狭い街だ、きっと前に乗せたことがあるんだろう。
「いえ、持病のせいなので…すぐ治まりますし病院は結構ですわ」
容態を気遣うと、女性はそう答えた。
「病気をお持ちなんですか。それは大変でしょう」
「ええまあ…生まれつき血液の異常があって。免疫系も弱いものですから、長いこと入院していたんです」
言われてみれば女性の肌は青白いし、お世辞にも体が強そうには見えない。
「ラジオつけますか。音楽でも聴けば幾らか気分も良くなるかもしれない」
「ええ、ありがとうございます」
それから女性は、新しい治療法が体に合ったおかげで2年ほど前から普通に生活ができるようになったことや
初めて働きに出た職場で知り合った男性と結婚の話が進んでいることなどを
やはり優しく落ち着いた低い声で、幸せそうに話していた。