死神と逃げる月

□全編
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《名選手》




綺麗な冬晴れの、雲のない空。




「どれ、ちょっと肩でも動かしてくるか」




その公園では時折、一人で壁に向かってボールを投げる男が目撃されているらしい。




何処の誰かは知らないが、昔プロ野球選手だったんだそうだ。




それが今では中年のホームレス。




もちろん俺のことだ。




「振りかぶって、第一球投げました」




対戦相手はいない。




投げたボールは自分に返ってくる。




こんなものは野球じゃない。
ただのボール遊びだ。




それでも何故だろう。




ちゃんとあの夏の一瞬を思い出せるのは。




「あ。いけねえ」




コントロールが狂って、ボールは思わぬ方向へ跳ね返った。




歳だな。
今までこんなことはなかったよ。




「打球は三遊間を抜けていきます。長打になった」




自分で実況をつけながら、転々とするボールを追いかけた。




と、誰かがそれを拾い上げる。




いや正確に言うと、口にくわえ込んだのだ。




犬だった。




よく公園に来て散歩している犬だ。
リードを外して放されているのに決して逃げない、利口な犬だなといつも思う。




「…BOW!」




「ナイスキャッチだ。お前は名選手になるぞ」




俺はその犬からボールを受け取ると、真っ平らで固いマウンドへ戻る。




今のヒットで二塁に進んだランナーを牽制するように、顔を振った。




犬はまだ、いた。




「オーケイ。しまっていこうぜ」




後ろで味方が守ってくれる。




その心強さを感じながら、俺は次の球を投げた。




「いいボールだ。バッター手が出ない」




俺は金歯を出して笑った。
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