死神と逃げる月
□全編
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《冬の朝》
若いセールスマンは迷っていた。
本当は、もうずっと前から。
上司に伝えようとしたことも何度かあるが、あと一歩が踏み出せずにいるのだ。
そして現状は何も変わらず、彼は今日も商品を売り歩く。
どうせ昨日と同じように空気清浄機は売れないまま、また一日が無駄に過ぎるのだ。
彼はそう思っていた。
「あれ、なんか違うような…」
それは商店街を歩いている時のことである。
彼が感じた違和感の原因はすぐに判明した。
八百屋だ。
以前彼に野菜をくれた、八百屋の主人がいない。
いつだって店先で、粋な掛け声を響かせていたのに。
店のシャッターは開いているのだが、どこにも姿がない。
「あっ」
ふと八百屋を覗き込んだセールスマンは声を上げた。
八百屋の主人が、店の奥で倒れている。
「お、おじさん、どうしたんだ!」
駆け寄ってみると、呼吸に合わせてヒューヒューと音がしている。
「い、息が……苦しい」
救急車だ。
早く救急車を呼ばなくては。
若いセールスマンは無我夢中で携帯を耳に当てた。
騒ぎに気付いた商店街の店主たちが、次第に集まってくる。
「おい誰か、息子を呼んでこい!早く!」
そんな叫び声が聞こえた。
昨日と同じように一日が無駄に過ぎるのだと思っていたのに。
それは、冬の朝の出来事だった。