死神と逃げる月

□全編
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《めがね怪人》




「たん!たーん!」




外から子供の声がして、彼女は面倒臭そうにベッドから出た。




本能的に女の耳は子供の声に敏感なのだと聞いたことがあるが、きんきんと耳障りで仕方ない。




緑色のカーテンから顔を出すと、潮風とともに海辺の景色が広がる。




はじめのうちは、このシーサイド・ビューも好きだったのだけど。




「たーん!」




家の前の道路では、英雄気取りの小学生が奇声を上げながら飛び回っていた。




「なーにが、たーん、だよ。だっせーの」




小学生は彼女を見上げる。
腕を十字に組んで、防御の姿勢をとった。




「出たな!めがね怪人!たーん!」




窓に向けてリコーダーを突き出す。




「誰が怪人だ。ひねるぞ」




「ねえ、おばさん漫画家って本当?」




思わぬ発言に彼女は面食らった。




子供の情報網は一体どうなっているのか。
近所の大人でさえ知らないことを。




「本当だよ。おねーさん漫画家だよ」




ふーん、やっぱりそうなんだ。




口をポカンと開けて、そんな表情で見上げている。




かわいいところもあるじゃないか、と思った。一瞬だけ。




「…いい歳して夢ばっか見てんなよ」




「うるせー。早く帰れ」




全く、近頃のガキときたら。




彼女はベッドに腰を下ろすと、短くなった煙草を灰皿から拾い火をつけた。




机の上にあった紙が、風で散らばる。
子供の声は次第に遠ざかっていく。




彼女は漫画家だ。
だけど仕事はない。
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