死神と逃げる月
□全編
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《てんとう虫》
「あの…どいてもらってもいいですか?」
呼びかけられて、暢気な彼は「あ、いけない」と声を漏らした。
彼は昔から、何かに熱中すると周りが見えなくなる。
ご飯を食べるのも忘れてしまう、ということが未だにあるのだ。
「ごめんなさい。どうぞ」
彼は、その女性にポストを譲った。
こじらせた風邪もようやく治り、久々に外の空気でも吸おうかとお使いに出たのだったが
家族に頼まれた年賀状を投函したところで、彼はつい気をとられてしまったという訳だ。
女性は小さな封筒を一枚、ポストに差し込む。
「何かあったんですか?」
女性は尋ねた。
もちろん先ほどまでの彼の様子についてだ。
暢気な彼は少し気恥ずかしそうにしながら、ポストの角の所を指差した。
「ああ」と女性もすぐに気付く。
「てんとう虫ね」
ポストの赤い色に紛れてしまって、言われなければ分からない。
「そうなんです。てんとう虫って冬になると集まって冬眠するって聞いたんで、1匹だけはぐれて大丈夫かなと思って」
「虫が冬眠するの?」
「いや、分からないです。そう言ってたオレの彼女、嘘吐きだから」
彼は本当でも嘘でも、どっちでもいいようだった。
てんとう虫はそのうち飛び立って、女性も帰っていったが
暢気な彼だけはいつまでも、てんとう虫のことを考えていた。