死神と逃げる月
□全編
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《いつの間に》
夜、八百屋の2階にある小さな部屋に電気が点った。
白熱電球に照らし出された畳はもうすっかり緩くなっていて、焦げたようなシミがあちらこちらに見受けられる。
店の主人は部屋の中央に置かれた低いテーブルの前に、あぐらをかいて座った。
閉店後は必ずここで仕事終わりの一服をすることにしている。
「母ちゃんよぉ。いつの間にあんなふうになっちまったんだろうな」
まず線香に火をつけると、テーブルの上の写真立てに手を合わせた。
自分の煙草に点火するのはそれからだ。
「ハタチ過ぎてまだ遊び足りねぇのかと思っていたけど、あいつは真剣なんだとよ」
呆れたふうに苦笑いを浮かべ、煙草の煙と溜め息を吐き出す。
それでもどこか嬉しそうにも見えた。
「いつまでもガキだと思ってたあいつが、何だか遠くなっちまったなあ」
どちらかと言えば控え目な性格の息子が、世界中を回りたいなんて言い出すとは思わなかった。
それも、あんなに情熱をたぎらせて。
あいつだってこの街にいれば、居心地よく平和に暮らせるだろうに。
どこぞの国の元首さまがまた戦争を始めるとか、そんな物騒な話も聞いている。
家族にずっと健康なままで傍にいてほしいと思うのは、ワガママだろうか。
「あいつは絶対行くよ。間違いねぇ。守ってやってくれよ母ちゃん。頼むぜ」
障子の隙間から白い月が覗いている。
写真の女性は静かに微笑みながら、彼の独白をただじっと聞いていた。