死神と逃げる月
□全編
113ページ/331ページ
《私でよければ》
「困ったなあ」
郵便配達夫の彼は誰もいない店内でしばらく待っていたが、一向に戻らない店主に業を煮やした。
店主は30年以上も前からこの場所にブティックを構えているらしく、近所に顔馴染みが多い。
そしてお店の営業中でも関係なく、世間話などをしに行ってしまうのだ。
今も近くの喫茶店にでも行っているのだろうが、戻って来ないところを見ると軽くお茶とお菓子くらいは楽しんでいるに違いない。
「郵便受けがなければ直接手渡しをするのが、ポリシーなんだけどな」
レジの辺りに無造作に置いていくのも、まあこの場合悪くはないのかもしれないけれど
それで盗難や紛失でもあればいけないから、やはり出来るなら手渡したい。
「仕方ない。面倒になるけど他を回ってからまた来るかな」
郵便配達夫の彼は、割りと独り言が多い。
配達中いつも、バイクに乗りながらブツブツ言ったり鼻歌を歌っている。
『私でよければ』
誰もいないはずの店内に、そんな声が聞こえた。
いや、声というのとは少し違う感じだったので、勘違いかもしれない。
配達夫は最初そう思った。
だが、振り返ると確かにいたのだ。
尻尾に藍色のリボンをつけた、真っ白な猫が。
「まさか、お前が言ったのか…?」
猫は何も言わないが、配達夫の傍まで来てチョコンと座っている。
このブティックの看板娘らしい。
いつもショーウィンドウの中で上品にすましている。
「…じゃ、じゃあ」
狐につままれたような気分で、その猫に封筒を差し出す。
猫はそれを口にくわえると、軽くお辞儀をして自分の指定席へ戻っていった。
配達夫は、夢でも見ているのかと首を傾げながら、けれど用事が済んでしまったのでひとまずブティックを出ることにした。
ショーウィンドウの前を通る時、猫の様子をもう一度確認する。
猫は封筒を布団代わりにしながら寝そべっていた。
「確かにお届けしましたよ」
そう念を押してから郵便配達夫の彼はバイクに乗り、木枯らし吹く駅前通りを走っていった。