死神と逃げる月

□全編
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《空き缶》




「どうしたんだい、そんなところで」




黒服の男が自分から話しかけるのは、珍しいことだった。




大体いつもは、自分の姿が見えていないだろうと思っていたら突然話しかけられて




「や、見えていたのか」と面食らうところから会話が始まる。




何か用でもない限り、自分から話しかけたりはしないのだ。




そんな黒服でさえ気になって思わず声に出してしまうほど、青年の挙動は不審だった。




風邪をひいているのだろうか、鼻と口をマスクで覆った彼は




自動販売機の傍に設置されたくずかごなんかに、じっと見入っている。




「何か面白いものでも入っていたかい」




「あ、オレのこと?」




もしかして聞こえていないのかな、と思い始めた頃にようやく彼は返事をした。




君の他に誰がいるというのか。
実に暢気な青年だ。




自分が話しかけられて面食らった時も、こんなふうに滑稽に見えているのかもしれないな。




「空き缶が落ちてたんすよ」




「自動販売機の近くなら、空き缶のひとつも落ちているだろうさ。珍しくはない」




「あ、正確には置いてあって。ほら」




確かに空き缶が、くずかごの脇にちょこんと立っている。




「不思議だなあと思って考えてたんだ。くずかごに捨てればいいのに、どうしてここに置いていったのか」




もう一度言うが、実に暢気な青年だ。




空き缶が置いてある理由なんて、普通は考えたりしない。




「のっぴきならない事情があったのさ、きっと。それ以上は本人にしか分かるまい」




「もし今ここにオレの彼女がいたら何て言うんだろう」




「彼女?」




「彼女は嘘吐きで、いつも適当なことばかり言ってるんだけど」




そうか。




この青年が、あの子の大事な人か。




「だけど彼女の嘘は夢があって好きなんすよ。この空き缶を見たら、彼女どんな嘘を吐くのかなあ」




笑っている。
本当に暢気な青年だ。




これから起きることを、何も知らないで。
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