死神と逃げる月
□全編
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《お婆さんと返す人・4》
夕暮れ時、いつもと何かが違うような気がしていた。
きっと、日課の散歩に出なくなったからだ。
そう思いながら、独り暮らしのお婆さんは寝室で横になっていた。
何だか気持ちだけでなく、体の具合まで悪くなったみたいだ。
セールスマンから買った色々な健康器具を使ってみても、さっぱり調子が出ないのだ。
そう言えば、前に死神が言っていた。
『その心残りが晴れたら、また会いに来るからね』
お婆さんは思った。
それは今なのではないか。
心残りになっていたあの子の帰りを完全に諦めた今、このまま体を悪くして生涯を閉じることになるのではないか。
それもいい。
もう充分待った、待ちくたびれた。
「お婆さん」
ふと窓の外から、誰かがお婆さんを呼んだ。
やはりあの死神が来たのか、と思ったがどうも様子が違う。
その声には聞き覚えがあった。
もう来ないと思っていたのに。
「私は返す人です。どうしても一言お伝えしたくて、今日はこちらから失礼します」
お婆さんには追い返す気力もなくなっていた。
「まずは、これまでの無礼をお許しください。何ぶん私がこの街に来たのは最近のことで…あなたの過去については知る由もなかったのです」
もう、いいんだよ。
お婆さんは誰にも聞こえないような声で、小さく呟いた。
「私は返す人です。無くした物を持ち主に返すのが仕事です。ですが、返すべき物を間違えていたようです」
その時、玄関の方で音がした。
鍵穴に鍵を差し込んで回す音。
しかし何年か前に古くなった鍵を付け直したはず。
昔の鍵を持っている人がいたとしても、開けることはできない。
「これでお詫びに足りるかは分かりませんが、特別な措置としてお返しします。いささか越権行為ではありますが」
案の定、鍵を開けることができずにカチャカチャと手応えのない音がする。
「確かにお返ししましたよ」
そう言うのとほとんど同時に、玄関から声がした。
「母さん」
お婆さんの知っている声よりは、だいぶ歳を重ねてくたびれた中年の男の声だ。
「今までごめんな、母さん。開けてくれないか」
だが、紛れもなく「あの子」の声だった。