死神と逃げる月
□全編
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《黒服の手紙》
始まりを探す彼女は緑色の煙を燻らせながら
『タクシーの運転手は鼻歌を口ずさんだ。人生は素晴らしいと。これはあくまで噂だが、今のところ最有力だ』
という文章の意味するところを考えていた。
言うまでもなく、黒服の男から届いた手紙の一段落だ。
彼女は以前、彼に何かを依頼したらしい。
その手紙を読み進めれば、依頼の詳細も明らかになると思っていたのだが。
「ミヒャエル・エンデでも読んでいる気分だな」
言いながら煙管を灰皿の縁に置き、ソファーに横たわった。
恐らく黒服は寡黙な男なのだろう。
手紙にも必要最低限の情報しか書かない流儀なのだ。
その癖、時節の挨拶などは挟んでくるものだから調子が狂う。
『一方の侵入者は未だ不明だ。「蝙蝠傘の彼女」という人物の存在を聞いた。だが、どうやら彼女はもうこの街にはいない』
「蝙蝠傘の彼女…」
始まりを探す彼女の頭の中で、何かが引っかかった。
これは少し前にどこかで聞いた名だ。
部屋の壁に描かれた窓。
その向こうで大きく枝を伸ばした木。
あの木の下で、誰かが言っていた。
―彼は今、「蝙蝠傘の彼女」を探している頃ね。だけどそれすら見つかるはずはないのよ―
そうだ。
夢の中に現れた侵入者が、そう言ったのだ。
そしてその言葉の通り、黒服の男は「蝙蝠傘の彼女」を探していたらしい。
全ては、始まりを探す彼女からの依頼で。
「思い出した!」
彼女は一人きりの部屋で、高らかに叫んだ。
かつて食事を共にした鼻歌の主と、別の世界から街に潜り込んだ侵入者…
それを黒服の男に探してもらっていたのだ。
どうして忘れてしまったのか。
とても大事なことだったはずなのに。
彼女の身にたびたび訪れる「忘却の時間」とは、一体何なのだろう。
依頼をしておきながら、やはり真実を知ることが怖くなって
彼女自身が記憶の扉に鍵をかけてしまったのだろうか。
「馬鹿な」
激しく揺れる心を落ち着けようと、彼女はまた煙管に手を伸ばす。
『今はこれだけしか伝えることができない。引き続き、期待に応えられるよう努力する』
手紙は、そう締め括られていた。