死神と逃げる月

□全編
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《コーディネート》




見慣れない、若い女性が店に入ってきた。




いや、何処かで見かけた覚えはあるのだけれど。
猫のサチコは女性を注意深く観察する。




綺麗に整えられた短い前髪を、何度も気にしながら




女性は落ち着かない様子で店内を見渡している。




「しばらく地味な服しか買ってないし、デートって何着てけばいいんだろう…」




本の中に浸って生きてきたその女性は、元々そういうものにあまり興味がなく




ここ数年は店番に明け暮れていて、今更世俗のトレンドやら今年のモードやらが分かるはずもないのだ。




「無難で、いいよね。いつも通りでいれば」




ショーウィンドウの傍から女性をじっと見つめていたサチコは




ようやく彼女のことに気が付いて、小さく驚き目を見開いた。




『誰かと思えば、あなた魚屋の』




そう声をかけると女性は振り向き、そして猫を見下ろした。




真っ正面から見れば、やはり間違いない。
商店街の魚屋の娘だ。




以前は髪も伸びっぱなしになっていたと思うが、随分とさっぱりした印象だった。




「リボンちゃん…喋った?」




リボンちゃんとは、もちろんサチコのことだ。




尻尾に藍色のリボンが付いているので、彼女はそう呼んでいる。




猫が喋るというのは常識的に考えれば、まさかそんなことは有り得ないのだが




しかし彼女は以前にも、この猫の声を聞いたことがあった。




一度であれば空耳と片付けられるが、二度ともなれば。




『特別だ。私が服を見繕ってあげよう』




「やっぱり喋った!伯爵猫!」




失礼な。
私は女の子なのよ。
伯爵じゃなくて令嬢と呼んでほしいわね。




そう言いたいのを堪えながら、サチコは彼女に歩み寄る。




『猫が喋らないなんて、誰が言ったの。ほら、またそんな地味な服を選んで。もう少し明るい色になさい』




魚屋の娘は店の奥をそっと覗いた。




ブティックの店主は先ほどからずっと、常連と思しき客と世間話をしている。




「わ、私にしか聞こえていないの…」




あるいは猫が喋ることなんて常識で、今更驚くことでもないかのように




店主も客も、最近の昼ドラについて語り合っている。




『その髪型、いいじゃない。とても似合っているわよ』




さあ、色々試着してみましょう。
サチコは誘う。




魚屋の娘は頷いた。
前髪が小さく揺れた。
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