死神と逃げる月
□全編
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《鰻》
元セールスマンの彼は駅前の公園にあるベンチに座り
自販機で買った冷たい缶コーヒーのプルタブを起こした。
高架を走る電車が、駅の2階にあるホームへと滑り込んでいく様子が見える。
強い日差しを跳ね返して、車体は銀色に輝いていた。
「……昼は鰻にするか」
今日は遅番だ。
しっかり腹ごしらえをしておかなくては。
「よぉ兄ちゃん。もう新しい仕事が見つかったのかい」
笑いながら話しかけてきた、恰幅の良い中年男性。
汗だくのその男は、公園に住み着いているホームレスだ。
前に一度話したことがあるだけなのに、何とも馴れ馴れしい。
「言ったでしょう。俺はやり直してみせるって」
「結構結構。野球は9回裏2アウトからって言うしな」
で、どんな調子だい。
男は元セールスマンの隣に勢いよく腰を下ろした。
ベンチが「ぎゅう」と軋む。
「今は介護関係の仕事をしてます」
元セールスマンはそれしか言わなかった。
何も大袈裟に騒ぎ立てる話ではなくて、普通の転職なのだから。
そう主張したかったのかもしれないが、自分でも良く分からない。
「前に言ってた福の神様とやらのお導きかね」
電車は再び車体を光らせながら、駅を離れていく。
「…別に、あの婆さんは関係ないです」
ただ、と元セールスマンは続ける。
「今の仕事はやりがいがある。必ずとは言わないが感謝してもらえる。前は嫌われるのが仕事みたいなもんだったから」
本当はずっとそういうものを、彼は求めていたのかもしれない。
「嫌われるのが仕事か。誰かさんも、そんなこと言ってたな」
「へぇ。じゃあ、その人に言ってあげなよ。そんな仕事、辞めちゃえって」
ホームレスの男は豪快に笑う。
「そうだな、いいかもしれない」
電車に負けじと、男の口の中で金歯が光った。