あ、まただ。 また音を外してしまった。 練習、足りなかったかな。 「ご、ごめんなさいマスター!」 「良いよ良いよ、もう一回やろうか」 「はい。」 流れてくるメロディに息を吸い込み歌いだす。 しかし、また同じ所でつっかえてしまった。 私が慌ててマスターに頭を下げると、いつもの優しい笑顔のままで私の頭を撫でるマスターは、迷うように宙を見ながら言う。 「うーん…やっぱりこの歌はミクには合わなかったかな?」 「っ、そんなこと、」 「大丈夫。ミクが悪いんじゃないよ、ごめんね。」 じゃあここのコード進行を少し変えて歌詞を… 楽譜を見ながらぶつぶつとそう呟くマスターに笑いかけながら、私の世界はぐわんぐわんと警笛を鳴らして揺れていた。早まる心臓で胸が痛い。 分かっている。マスターはちっとも怒ってなんかいない。とても優しいから。 私の為に曲を変えて、私に合った歌を作ってくれてる。優しい人。 だけど。 (だって、だって私、ボーカロイドなのに。) マスターの作ってくれた音楽が、考えられていた世界が、私のせいで変わっていく。そんなの耐えられない。 これは私のプライド?それとも、罪悪感? (ごめんなさい。) マスターが楽譜にペンで印をつける度、私の心もぐちゃぐちゃになっていくような気がした。 白い紙が汚れていくのが許せない、潔癖にも似たこの気持ち。 もっと完璧に歌わなくちゃ。 私が歌を壊してどうする。 「マスター、今のままで大丈夫ですっ!私いっぱい練習しておきますから!」 震える声を必死で抑えながら顔いっぱいに笑ってみせた。 なのに、マスターは悲しそうに顔を歪める。 どくん、と心臓が跳ねた。 どうしてマスターはそんな顔をするの? 「ミク、無理しないで良いんだよ。」 無理?無理ってなんですか? 私、まだまだ、頑張れるのに。 「ミクと一緒に合った曲を作れる方が、僕も嬉しいから。」 嫌なんです。 私、だって、マスターの曲が好き。そのメロディ、本当に素敵なんですもの。 胸の痛みを抑えながら、それでも私は笑う。 結局、ただ私は弱いのだ。 怒られるわけがないのに私のせいで曲が変わることを恐れ、嫌われるわけがないのに逆らうのを怖がり、それでも失敗して彼の思い通りにできない私。 ゆらり、また世界が歪んだ。 泣いているわけではない、ただ目眩がした。自分の不甲斐なさに心臓が悲鳴をあげて痛む。 悲しい、悔しい、恥ずかしい。 どうして私は、ああ私はなんでうまくできない、私は、私、 「マスター。」 発作のように鎮まらない焦りにばくばくと犯された世界で、凛とした声が響いた。 静かで、でも確かに響く声。 私の大好きな声。 「俺がコーラスで入って良いですか?」 「え?」 「多分ミクさんの苦手な低音もカバーできるし、ハモリがあった方がこの曲がもっと柔らかくなると思って。」 こちらに歩み寄ってきたレンくんは、マスターの隣に立って他にも色々と意見を言う。 私じゃ絶対にできないこと。 考え込みながら頷くマスターが楽譜にペンを伸ばした瞬間、レンくんがその手を掴んで笑った。 「書かなくて大丈夫です、一回聞いてみてくれますか?」 「それじゃあ…良いかなミク?」 「は、はいっ!」 こちらを見たレンくんが、ふにゃりと笑みを漏らして私の頭を撫でる。 それだけで胸の中がすっと軽くなったような気がした。 「レンくん、」 「大丈夫、ちゃんと分かってます!マスターの曲の雰囲気は崩しませんから」 ミクさんはこのままの曲が大好きなんですもんね、とレンくんは笑う。 その言葉に、なんだか泣きそうになってしまった。 どうして、彼はこんなにも私を分かってくれるのだろう。 いつも私を、上手くできない私の気持ちを、上手に広げて皆や私に見せてくれる。 レンくんが私の服を引っ張り歌いましょうと言ったので、私はもう一度息を深く吸い込んだ。 (あ…。) 上手くいった。 私の声に寄り添うようにレンくんが伸びやかに歌い、それに寄り添おうとすることで私の歌も自然に口から流れていく。 不思議だ、あんなに躓いていたのに。 レンくん、魔法使いみたい! 「うん、良い感じだよ二人共」 「ほんとですか!?」 「俺とミクさんなんだから当たり前ですっ」 にこやかに笑ったマスターに、思わず弾んだ声をあげる。 そんな私の腕を組んで、レンくんも勝ち誇ったように無邪気に笑った。 それでも顔をあげて私を見る彼の目は優しげで、その少し大人っぽい表情にどきりとする。 なんていうか、ほんと。 「レンくんは凄いなあ…」 子供らしくて可愛いのに、きちんと大人の目線を持っていて。 可愛い弟なのに、たまに頼りになるお兄さんみたいで。 私が思わず呟くと、レンくんはきょとんとしてから、優しい優しい笑顔で笑った。 ほら、その表情! いつから彼はこんなに、優しい目をするようになったんだろうか。 いつの間に、こんなに、格好良くなっていたのかな。 私の中のレンくんが、もう可愛い弟でも頼りになるお兄さんでもないことは、自分でも良く分かっていた。 「違います、ミクさんの歌が素敵だから俺も楽しく歌えたんですよ。」 そうさらりと言ってのけるレンくんに、胸の中に甘い痛みが広がっていく。 レンくんは本当にどこまでも私を大切にしてくれるんだ。 そして、私は知っている。 レンくんはこのいつもと違う優しい瞳を、大人らしい笑い方を、私にしか向けないことを。 自意識過剰なんかじゃない。分かるの。 だって、私は、レンくんのその瞳に恋をしたから。 私に恋する、あなたに恋をした。 「ねえ、レンくん。」 「何ですか?」 「もう一回、歌お?」 「…!はい!」 レンくんの温かい手をとって歌う。 心が弾んで、幸せが歌声になって私から溢れていく。 ああ、もう、やっぱりレンくんは私の魔法使いだ。 あなたがいれば、いつだって輝ける。 誰よりも幸せに歌うことができるんだもの! |