ロング

Alice in Motherland
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(……)


眉間に皺を寄せ、掲示板を見上げる田中の表情は、明らかに憮然としている。
しかし先程も述べた通り、それは怒りや憎悪といった類の感情とはまた異なるモノだった。

ヒトの形をしているとは言え、中身までも完全にヒトを模しているかと問われれば、そんな事はない。
いや、むしろ自分の気持ちが──心が分からない、上手く形容しがたい、と言った方が正しいのかもしれない。


「現在12時20分……。即ち、約束の時刻より40分も早く到着してしまった、という事か…」


冷静に現在の状況を分析すると、田中は「ふう…」と深いため息を吐いた。
──かと思うと、今度は高らかに笑い声を掲げた。


「クク…フフ。フハハハハ! 俺様は地獄の番人より時を操る能力を授かった身! 即ち! 今は12時20分であって、12時20分ではないのだ! …多分、12時40分か50分くらいだろう! オハハハハハハッ!!」
「…もし、そこの人」
「グハハハハ! ………ん?」


憚りもせず超理論を展開し、勝ち誇った表情で不敵に笑う田中に横槍を入れてきたのは、一人の老婆だった。
その老婆は白髪頭で、腰はすっかり曲がってしまっており、年齢は七十代後半といったところだろうか。

身長が頭一つ分以上低いその老婆を不審げに見下ろしながら、田中は警戒心を隠そうともせず尋ねた。


「……何だ、貴様は。よもや、魔界からの刺客ではあるまいな? フッ、一見とぼけた老婆の振りをして俺様を油断させようとは…俺様も舐められたものだ!」
「は? まかい…? しかく…? はてさて、何のことかねぇ。この歳になると、若いモンの言ってることはさっぱり分からんでなぁ。ひゃっひゃっひゃ」
「……」


そう言って老婆は自分よりうんと背の高い田中を見上げると、言葉とは裏腹に楽しげに笑った。
老齢ではあるが、陽気な性格をしているらしい。


「その様子を見るに、どうも刺客ではなさそうだな。…俺様に何用だ?」
「ああ。アタシの持ってるこの懐中時計、見てくれるかい? 家に代々受け継がれてるモノなんだけどね。いわゆる『百年いつも動いていたご自慢の時計』ってヤツさ。当時の職人が数年かけてようやく完成させたこの緻密な文字盤…今の時代じゃ絶対に生み出せない、骨董品そのものさね」
「……それが、何か?」


突如饒舌になった老婆は自らの懐中時計について熱弁を振るうものの、田中は大して興味を示さなかった。
時計というモノ自体にそこまで関心が湧かないというべきか。


「この懐中時計が立派なのは外見だけじゃない。これはねえ、作られてから百年以上、ただの一分、一秒の狂いすらないんだ」
「貴様…。結局何が言いたい?」


眉をしかめる田中に、老婆は自身の懐中腕時計の文字盤を突きつけて、こう告げた。


「つまり、ね。今は12時40分でも50分でもなくて、12時20分だって事さ」
「んぐっ!? むむぅ……!」
「アンタがバカデカい声で『今は12時20分だけど12時20分じゃない!』とか何とか訳の分からない事をのたまっていたから、老婆心ながらちょいと訂正させてもらおうと思ってねえ。老婆だけに! あっひゃっひゃっひゃっ!」
「……っ……」


ケラケラと愉快そうに笑う老婆とは対照的に、田中はばつが悪くなったのか、ふいっと顔を背け無言のまま俯いた。


「まあ…その感じだとあれじゃろ? アンタのガールフレンドが午後一時着のバスでここに来る予定になってて、そんでアンタはその娘に会うのが楽しみで楽しみで仕方なくて、ついつい早く来過ぎちまった…というオチじゃないのかねえ〜?」
「ッ!?! ぬ…ぬぐぐぐ…!! ………ぐぬおおォォォォォォォォォッッ!!!」


身体に閃光、もしくは落雷を受けたかのような衝撃。
それらが田中の身に容赦なく浴びせられた。


(…なん…だと? この俺が…。この俺様が…ッ!! 何故だ…何故だあああああああ!?)


出会って数分。自分でも理解し得なかった複雑な感情をも全て見抜かれ、田中は心身共に丸裸にさせられたかのような心境だった。
それは屈辱感か、はたまた羞恥心か。

──完全論破。つまり氷の覇王は敗北を喫したのだ。
しかも見ず知らず、通りすがりのただの一人の老婆によって。


「いやはや、若いってのはいいもんだのぅ。ひゃっひゃっ」
「…う゛……っ」


いつの間にか田中は、首に巻いたマフラーで紅潮した顔をすっぽりと隠していた。
その姿に、制圧せし氷の覇王たる者の威厳は微塵も感じない。


「さぁて、若いモンをからかうのもこの辺にしようかね。そんじゃアタシはこの辺で。…罪木の事、大事にしてやっておやりよ」
「…ん……?」


そう言って老婆は踵を返し、いずこかへと去って行こうとする。
しかし、最後の台詞に田中は違和感を隠せなかった。いや、隠せるはずがなかった。


「お…! おい待て! 何故貴様、奴の名を…!!」


知っているんだ──。
そう言いかけたが、その言葉は結局途切れてしまった。

慌てて振り向いたものの、老婆は既にどこにもいなかった。
それはほんの数秒、一瞬の間だったというのに。

そして田中は再びバス停にひとり、取り残される形となってしまった。
老婆と過ごしたわずか数分がまるで怒濤のようにも感じられた。


「…結局何者だったのだ。今の婆さんは…」


胸の内の疑問を思ったまま口にしたものの、無論それに答えてくれる者は誰もいない。
が、それを意に介する様子も悲観もなく。
やがて田中は静かに口の端を歪ませた。


「クク…フフ、ハハ…。フーハハハハハハハハッ!!」


高笑いし続けるその姿はまさに大胆不敵。
制圧せし氷の覇王・田中眼蛇夢であった。


「フフ…人間風情にしてはやるじゃないか。誉めてやろう」


王としての風格を携えながらも、同時に田中の表情は清々しくもあった。
先程の老婆が何故『彼女』の名前を知っていたのかは分からない。
今となっては知る由もない。

だが、だからこそヒトに無限の可能性を感じてしまうのも事実だ。
時折こんな風に予想外な事が起こる世界は未知に溢れていて、面白い。そして愛しい──。

田中は、薄々感づいていたのかもしれない。
この世界を支配したいという征服欲の反面、この世界を守りたいという相反する思いが芽を出していた事に。

──俺様も随分と丸くなってしまったものだ。
ヒトに感化されつつある己の甘さを半ば嘆きつつ、田中は自嘲気味に呟いた。


「……やれやれ、だぜ」


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