(文2)

□消え行く星空
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下ろし立てのコートを着た。長いマフラーを首に巻いて、暖をとった。ポケットに入れた冷たい手も本来の温かさを取り戻し始めたようだ。もうすっかり冬の空気になった。この季節も嫌いではない。外はまだ暗い。午前四時。街の明かりは夜とは違い、そのほとんどが消えていた。海の向こうに何隻かの船の明かりが見えるだけだ。独り歩く海岸沿いで、波の音だけが耳に届いた。
防波堤に上り腰を下ろす。吐いた白い息は風に流され消える。その風は俺の髪をも撫でて流れていく。空気に鼻先が冷たく感じる。きっと赤くなってはいないのだろうが、ポケットから手を出し鼻に触れると、鼻先に温かさを感じた。だが、それも一瞬で冷えた空気に調和されていく。再び冷たくなった鼻も、手も、温かさを取り戻すには時間が掛かるだろう。手に息を吐いてみた。体内の温かさはやはり直ぐに消えてしまう。それでも何度か息を吐いた。そして、温かさが消えないうちにその手をポケットにしまう。空気に触れない分、温かくなるのは早いだろう。
カタンと音がしたのはそれから暫くしてからだった。音に気付き横に目をやると、缶珈琲が見えた。それを持つ白い手も、だ。
「遅くなってすまない」
息も切らすことなく、ただ平然とした言葉だった。
「嫌。少し早く来すぎてしまったのだ」
蓮二は遅れて来た訳では無い。だから詫びられても困るのはこっちだ。むしろ急がせてしまったのならこちらが謝らなければならなくなる。
「冷えただろう。これを」
蓮二は言うと、先程置いた缶を持ち上げ俺に寄越す。
「ありがとう……」
缶は温かかった。両手で包むように持ち、冷えた手を温めるため手の内で転がす。
「今日も綺麗に見えてよかったな」
蓮二は言いながら防波堤に上り横に腰を下ろした。
「あぁ、本当に」
早朝の海岸沿いに俺達は星を見に来た。空には無数の輝き。その輝きは大きく、今にも手が届きそうだった。
「夏に見た時と、変わったようには思わないな」
「見える角度が変わっただけで、それはしっかりそこにある。嫌、そこに見えている」
七夕のあの日、蓮二と星を見た。夏の大三角を探し、織姫と彦星の会えない寂しさを語った。その星は今でも寄り添う事無く、川の向こうで輝いていた。
「もしかしたら、もうどちらかは居なくなっていたりしてな」
不意に蓮二が言った。
「何億後年という時間を経て、俺達に届いているこの光りが、今も宇宙にあるとは限らないだろう」
確かにそうかもしれない。だが、それでもきっと。
「俺は、そんな事は無いと思う」
「……何故」
「俺は織姫だからな。もし彦星が先に居なくなっていたら、嫌だ。消えるなら、一緒がいい」
俺の言葉を聴いて、蓮二は笑った。もうひとつ持っていた、缶珈琲のタブを開けながら、笑った。
「な、な……」
「確かに。俺も織姫が先に居なくなるのは悲しいな。離れていても愛しているから」
目が合った。どうしていつも蓮二の言葉にこんなに胸が高鳴るのだろう。体の体温がどんどん上がっていくようだった。それを知ってか知らずか、蓮二は涼しい顔で目を反らし、先程開けた缶に口を付けた。
「また見に来よう」
「そうだな」
答え、渡された缶のタブを開けた。口を近付けると、甘いミルクの香りがした。その甘さが口内に広がり、満たしていく。
「……温かい」
それから暫く二人黙って空を眺めていた。時間と共に流れ沈んでいく星達を見ていた。船の明かりに見えなくなっていく星達を。
どのくらい経ったのだろう。手にした缶も空になり、空が段々と明るくなってきた頃、蓮二は突然立ち上がる。
「……蓮二?」
「空が明るくなってきた。もう時期全て見えなくなる。……帰ろう、弦一郎」
きっと、蓮二は寂しかったんだと思う。急に全て見えなくなる事が。消えてしまう事が。
「そうだな。帰ろう」
立ち上がり、防波堤を降りると、蓮二と手を繋いだ。お互いの手は冷たかったが、直ぐに温かくなるだろう。帰り道に太陽が差してきた。キラキラ光る水面も、起き始めた鳥の声も、俺達を包んでいるかの様だった。
「蓮二」
「……ん」
「何でもない」
寂しがる事など無いのだ、蓮二。俺は蓮二の手を、少しだけ強く握った。蓮二は何も言わず、それを受け入れてくれただけだった。
朝日が眩しくなってきた。今日も一日が始まる。

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