(文)

□喧嘩
1ページ/1ページ

じめじめと暑い、そんな季節が今年もやって来た。長く降り続く雨は、夏までのカウントダウンを始める。梅雨の晴れ間。テニスコートには、ボールの音と声援が響き渡っていた。それを邪魔するかの様に、再び空には厚い雲が掛かる。日の光が無くなり、暗くなった場所は先程よりも肌寒く感じる。
「集合!」
コートに響いた声に、皆が手を止め、声の下へ駆けてくる。集まった事を確認してから、声の持ち主、幸村精市は再び声を張った。
「以上で本日の練習は終了!各自今回の復習を怠らないように!一年生はコート整備!全員クールダウンも忘れるないように!では、解散!」
一気に要件を述べ、幸村は踵を返す。それに連なるようにレギュラー達が歩いて行く。部活の終わりで緩んだ気にコートでは見せない顔をするレギュラー陣に釣られてか、その場に笑い声が響いた。


狭い部室で、まずロッカーを閉めたのは仁王雅治だった。
「幸村」
閉めると同時に放った声は届いておらず、もう一度幸村を呼ぶ。声にピクリと身体が反応した幸村は、薄笑いを浮かべながら優しい口調で話を聞き返す。
「いや、の。帰りにどっかに寄ってかんかって話なんじゃが、どうじゃ?」
気付いた幸村に仁王は笑い返し答えた。
「そうだな……誘いは嬉しいけど、今日は止めておくよ」
「そうか。なら、また今度の」
言って仁王は荷物を持ち、着替え終わった柳生比呂士へと近寄って話し始める。それを横眼に荷物を担ぎ上げた幸村は真っ直ぐに扉へと足を進める。
「それじゃあ、閉じまりだけお願いするよ」
扉のノブに手を掛けながら、身体を半分捻り部屋全体を見渡す。
「ちゃんとやっておくぜ、ジャッカルが」
「俺かよ」
このやり取りに合わせ「頼んだよ、ジャッカル」と言い、幸村は扉を開ける。
「おう。お疲れ、幸村」
ジャッカル桑原の言葉に合わせ、部屋に居た全員がそれぞれに「お疲れ」と幸村に向けた。幸村は含み笑いをし「お疲れ」と言う言葉をの残して扉を閉めた。


「どうして、かな・・・…?」
下校時刻。駅にはたくさんの人が行きかう。
「疲れて……」
そこを歩く幸村の足取りは重く、ふら付いていた。
「……い………」
バランスが崩れ、倒れ込む。手を突く事も出来ずに倒れた幸村に周囲がざわめく。
「どうしたんだ?」
「急に倒れたんだ……」
「誰か、救急車呼べよ!」
周囲の声が遠く幸村の耳に届く。しかし、何を言っているのかは分からない。
「幸村!」
そこに響く、一際大きな声と、荒々しい足音が二つ。
「幸村!幸村!」
何度も呼びかける少年の声に、幸村の瞳が薄く開く。見覚えのある帽子。真田だ。そう思い、声に出そうとするも、只口が開くだけで、思いが届く事は無い。そして、沈むように瞳が閉じられた。


緊急治療室に明かりが灯る。廊下の長椅子に腰かける影は二つ。二つの影は肩を落としていたが、一つの影は頭を抱えた手を震わせていた。
「少し落ち着けばどうだ、弦一郎」
柳蓮二が小さく呟く。隣で恐怖と闘う様に震える真田弦一郎の心を静める様に。
「……幸村が」
開いた口からは震えた声が聞こえる。
「幸村が居なくなれば、俺は、何を見てテニスをすればいい?何を追いかけて……」
真田が絶望する姿を柳は横眼で睨むように見る。
「幸村が居なくなる、か……」
呟いた刹那、柳は真田の胸倉を掴み上げ左の頬に己の拳を当て入れる。拳に残る頬の柔らかい感触と、骨の硬い感触がそこには残る。反動でよろけた真田は呆然とする。
「追うものが無ければ何も出来ないとは……」
「何……?」
柳の言葉に真田の目付きが変わる。鋭い眼光は柳を睨み付ける。
「……お前には失望した」
見下した目を柳は真田に向ける。薄く開かれた目は冷たく棘があった。
「蓮二!」
頭に血が上った真田は態勢を直し、右手で作った拳で柳の左頬を殴る。よろめいた身体を右足で支え、左足に重心を移しながら、柳は真田の頬に一発を返す。血の味がした。殴られた拍子に頬粘膜を咬んだらしい。そう真田が思う頃には口角から血が伝っていた。
「幸村が居ないで、どうして上が目指せる!」
真田は再び握った拳を柳の頬を殴る。二度拳が入った柳の頬は赤くなり、鼻血が伝う。衝動に備え無意識に噛み締めた歯を緩ませ、柳は小さく咳払い、もう一度拳を握る。振り被った腕は風を切る。頬骨に当たった拳が赤くなる。
「あいつが居ないで……」
何処までも弱音を吐き続ける真田に、柳は透かさず頬に拳を入れる。じんと響く拳の感触を堪え、再び握った拳をもう一度真田の頬に当てた。後ろから前へと重心が移り、倒れないようにと前に出した右足で身体を支える。衝撃が伝わり痺れる足で踏み込み、真田の胸倉を掴み壁へと叩きつける。
「その考えが甘いんだ」
開かれた柳の口からは、いつもの優しい声が無い。
「どうして自分から立とうとしない。進もうとしない!」
言葉が出る度に力が入る柳の腕は、何度も動き真田を壁へと叩きつけた。
更に絶望したかのように、目に光が無い真田を柳は初めて目にする。
「お前に何が分かる……」
擦れる程の小さな声で呟いた真田に、柳は更に失望する。「だからお前はいつまでも弱いんだ」
投げ飛ばす様に放したシャツには血が付いていた。
「お前は一生そこで腐っていろ」
言い残し踵を返した柳の後ろで、真田は壁に沿いながら下へと落ちた。二人の腫れた頬を、一粒の涙が冷やした。



「おはよう」
翌朝、腫れた頬に湿布を貼り、真田はテニスコートに居た人物に挨拶をする。
「え!どうしたんすか副部長その顔!」
「なんでもない」
「柳先輩も同じとこ腫れてんすけど、なんかあったんすか?」
言葉を聞き、真田は横目に柳を見る。こちらに背中を向け、決してこちらを向こうとはしなかった。
「……何でもない。それより、話がある」
集まった仲間に告げられた残酷な事実。口にする真田の声も震えていた。
「蓮二……」
話が終わってから、真田は柳に話かける。けれど、返ってくる言葉など無かった。それは一日続き部活が終わった後、二人きりになった部室でも同じだった。幸村の代わりに部の日誌を付ける真田と、データ整理に専念する柳。二人気まずく向かい合う。狭い机の距離が更に気まずさを増す。
「蓮二……」
柳の口から帰ってくる言葉は、やはり無かった。
「あれから考えたのだ」
それでも話を続ける真田の声が響く。
「俺は、甘え過ぎていたようだな。誰かを追わなくては何も出来ない愚か者だ」
柳のノートを取る手は止まることは無い。
「だから、一人で立とうとしたのだ」
真田は持っていたペンで、日誌を何度も叩く。黒い点が白いノートに描かれていく。その一点に集中するように真田はそれを見ていたが、手の動きが止まると同時に呆れたように笑った。
「けれど、上手く立てなかったのだ。上手く、歩けなかったのだ」
柳の手が止まった。ゆっくりと上げられた顔。今日、初めて視線が合った。
「蓮二。どうしようもなく情けなく、頼りの無い俺だが……。共に、歩いて来てはくれないだろうか」
きっと思いは同じだから。
「俺の支えになってくれないか」
分かり合える思いがあるから、仲間がいるから。
柳の微笑に、真田は茫然としていた。
「情けが無く、頼りも無い。おまけに気が小さく、不器用。良く言えば、一生懸命、か」
「蓮二……」
「信じよう」
柳の言葉は、真田には真っ直ぐ過ぎて、眩しかった。
「共に」
幸村が帰って来るまで。
「歩いていこう」
幸村が、帰って来てからも。ずっと、離れる事のない絆で。繋いだ手を決して離さぬ様に。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ