(文)

□追憶に別れ
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お前と出逢って、何度目の春が来ただろう。
こんなに寒い春は、初めてだ。


「出来る限りのことはしましたが、目を覚ますかどうかは五分五分と言ったところです」
窓の外で桜の揺れる音と共に、部屋には低い声が響く。
「もし目を覚ましたとしても、記憶がない可能性の方が高い。と、言うことだけ理解しておいてください」
「……助けて頂いただけで、もう。……ありがとうございました」
白衣に袖を通した人物に深く頭を下げた。春の日差しで明るく温かい筈の部屋は、薄暗くとても寒く感じた。


一週間前。
弦一郎と肩を並べて帰った。日が延びてきて、余り人気の無いところだというのに人目を気にして繋がなかった手は生暖かい風を切っていた。それ以外はいつもと同じような時が流れていた。立ち止まる場所でさえも、変わりは無かった。
「それではな、蓮二」
「あぁ」
小さく交わした挨拶に手を挙げて、お互い違う帰路へとついた。交通も人気も余り無い通りから小さな路地へと入った後ろで音がしたのは、何十歩も歩かない時だった。振り向いて、うっすらと砂埃が見えた時身の毛がよだった。最悪の状況が頭を駆け巡り、止めようとしても止まらない。持っていたキャリーバックを落とし慌てて駆け出す。短い距離にも関わらず、息が上がった。音のした方に目をやると、トラックが壁へと突っ込んでいた。立ち上がる白い煙。衝撃で電柱は曲がり、ブロック塀は無様に崩れさっていた。そこに人影を探した。居ない事を信じて。トラックの向こうで、驚いた顔をしてその様子を見ていることを信じて恐る恐るそれへと歩みを進める。どんどん早くなる鼓動に肩で息をしながら。足元に合った帽子にも気付かず、そこに見た情景に息を呑む。電柱の横で塀にもたれ掛かる様に座っていた人物は先程とは打って変わりピクリとも動くことが無かった。唖然とする。
「……げん、いちろう?………弦一郎!」
無意識に震えていた足を前へ出し駆け寄る。そして、弦一郎と目線が合う様に膝を折る。滑り込む様に折った膝は、地面との接触と摩擦でじわりと痛んだ。
「弦一郎!」
名前をもう一度。しかし、返事が返ってくる事は無い。塀に強く打ったのだろう。頭から流れた血は、頬を伝い滴り落ちてシャツを赤く染めていく。
「弦一郎!弦一郎!」
何時もの様に頭が働かない。何をするべきなのかも分からずただただ名前を呼ぶことしか出来ない自分に腹が立った。けれど、血を止めなくてはと思った。見る間に赤く染まっていくシャツの分だけ焦る。
「大丈夫だ!焦るな、焦るな!」
自分に言い聞かせながら乱暴にネクタイを外し、シャツを脱ぐ。なるべく頭を揺らさないように弦一郎を抱え気道を確保する。小さくだが息はあった。頭に自分のシャツを巻き血を止め、傷が深い左腕にはネクタイを縛った。
「大丈夫だからな、弦一郎……」
その言葉を口にした後からのことは覚えていない。
記憶が飛んだ。そう言えばいいのだろうか。気が付いたら病院に居た。膝と掌には包帯が巻かれていた。これも何時巻かれたか覚えがない。ガラスの破片でも刺さっていたのだろうか。今になり鋭い痛みを感じた。
それから二日。弦一郎は集中治療室に入れられ、出てきてから三日、病室のドアには面会謝絶の札がかけられていた。


担当医から話を聞いた。面会謝絶の札が取れた部屋で、ベッドの横に置かれた椅子に腰掛けた。
「お前が生きていてくれるだけで、嬉しいよ」
目の前の事実は大きく残酷だけれど、生きている。それだけが救いだった。右手で弦一郎の額に触れる。温かかった。いつも隣にあった温もりは、まだ、ここにある。
「そろそろ……起きてもいいんじゃないか、弦一郎?………また、お前とテニスがしたいよ」
撫でる様に前髪を払う。刹那、微かに瞳が動き、開いた。
「弦一郎?」
喜びよりも強い驚きは、直ぐに逆になる。
「待ってろ。今医者を呼ぶ」
立ち上がると、小さな音を立てて椅子は後ろへと下がる。押したボタンは冷たくも温かかった気がした。
「弦一郎……気分は、どうだ?」
下がった椅子をベッドへといっぱいに近付け再び腰掛ける。前のめりになり、弦一郎の顔を覗き込んだ。
「……げん、いちろう?」
小さく開かれた口から出た言葉は、か細い。
「俺の、名前か……?」
呼吸が止まる。喜びが引いた。忘れていた訳では無いだろう。記憶が無い確率の方が高いということを。
「……そうだ。お前は、真田弦一郎だ」
「さなだ、げんいちろう……」
虚ろな目は、顔ごとゆっくりと俺に向けられた。
「お前は……」
心が痛い。
「誰だ?」
顔も、声も、全て。
「……柳。柳蓮二だ」
知っているのに。
「柳……」
ここに居るのは。
「お前は、俺の事を、知って、いるのか?」
俺の知ってる人間では。
「……嫌」
ないのだから。
「知らない……」
知らない、弦一郎。
「知らないのに、ずっと、居てくれたのか……?」
目を合わせれば、知らない目をする。
「……そうだ」
それでも、放せない。
「知らないのに……」
悲しくも、綺麗に思えて、放せない。
「……泣いて、くれるのか?」
言われて初めて、頬を伝うものに気付いた。溢れ出して止まらないそれは、次々と零れ落ちる。指で触れる。指を伝い流れる。涙。
「あぁ……」
答えると、それはますます溢れてくる。止まらない。顔を伏せると、膝の上の拳を濡らす。身体が震えた。喜びが、悲しみが、全身を伝う様だ。片手で顔を覆う。声を殺して泣いた。濡れた拳が戦く。それに触れた、弦一郎の手。少しずつ、恐る恐る握られた拳に、何故か涙が止まった。
「……泣く、な。俺の為に、泣かなくても、いい」
きっと、俺の知ってるお前も、そう言う筈だ。見えた。弦一郎の頬を伝う雫が。
「………真田」
お前は、生きてる。
「俺と、友達になってくれるか?」
握られた拳に、更に手を重ねる。
「……初めての、友だ……」
ぎこちなく笑う。初めて見た、真田弦一郎の笑顔。俺にくれた微笑みを、忘れることは決して無い。
「……有難う。蓮二」

二人になって、初めての春が始まる。
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