勿忘草の心


□6.予兆
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翌、月曜日の昼休み。
私は例のごとく美術室にいた。
完成した絵を前に、安堵の息をつく。
今回の絵は、天使が十字架に祈りを捧げている絵だ。
いつも私の絵はどこかダークだと言われるが、これはその要素がないと思う。
金の髪に白と薄い翡翠色の衣を纏った天使が、銀色の十字架に祈っている様を、斜め後ろから描いた。
タイトルはわかりやすく簡潔に『祈り』だ。
「これで完成っスか?」
私の後ろから、これまた例のごとくひょっこり武くんが顔を出して尋ねる。
「うん」
〆切に間に合ってよかった。そして、今日という日に間に合ってよかった。
私は軽く伸びをして、筆を置いた。
背後の武くんに向き直って、姿勢を正す。
「毎日来てくれてありがとね。私何にも楽しい話とかしてあげられなかったのに」
武くんは、にかっと笑って椅子を近付ける。
私が絵を描き終わったから、近付いても大丈夫だと判断してくれたんだろう。
本当によく気のまわる子だ。
「オレが先輩の傍にいたくて勝手についてきただけっスから。先輩が絵描いてるとこ、見られるだけでうれしいんス」
台詞だけ聞いたら、まるで口説き文句だ。
私はちょっと照れて、視線を絵に戻す。
この絵は祈りの絵だ。亮斗くんに捧げる、祈りの絵。
「この絵はなんか綺麗なのな。……いつも七花先輩の絵は、骨があったり背景が暗かったりするけど」
「うん。綺麗で清純な絵にしたかったから」
武くんがさらに椅子を寄せ、まじまじとキャンバスを眺める。
「最初は真っ白い板だったのに、こんな絵になるなんて……なんか、すげー」
素直に感心してくれる武くんには感謝するが、私は少し戸惑っていた。
絵を描いている姿をわざわざ誰かに見せるなんて、今までの私なら考えられなかった。
でも武くんに見られるのは嫌じゃなくて、武くんと一緒の空間も嫌じゃなかった。
絵は、亮斗くんとの二人だけの空間のはずだったのに。
……きっと、武くんと亮斗くんが似ているから。なんていうのは建前で、ほんとはわかってる。
武くんは私を傷つけないって、わかっているからだ。
だからこの空間に入れられた。
シャマル先生みたいに私の事情を知ってる人は入れられない。絵の意味を聞き出そうとする興味だけの人も入れられない。
私の手首の傷とか、亮斗くんのこととか、絵によく描く骨の意味とか、訊きたいことはたくさんあるはずなのに、武くんはそれを聞かない。
だから私は安心して近くにいられる。
「武くん……ありがとう」
「? 何がっスか?」
「なんとなく、言いたくなったから。武くんに、ありがとうって」
私がそう言うと、武くんは照れくさそうに笑った。
「いきなり何なんスかー」
武くんは、信頼できるひと。
だけど言えない。言ってはいけない。
この傷に触れていいのも、癒すことができるのも、亮斗くんだけだから。
私が君を守る。君との絆を守る。
どんなに痛みを伴うとしても、どんなに孤独が連れ添うとしても。
私は決して君を忘れない。前に進んだりしない。
この命続く限り、君は私の中に在る。
今日という日をむかえて、私の心はひどく穏やかだった。
「七花先輩」
名前を呼ばれて、武くんの琥珀の瞳を見つめる。
「……あの保健医とは、どういう関係なんスか?」
他の日だったら、少しうろたえてしまったかもしれない。
シャマル先生と私の繋がりに、亮斗くんの存在は関わりすぎているから。
でも今日の私は、落ち着いて対応できた。
「シャマル先生は私の相談にのってくれてるの」
昨日あんな風に別れたのだから、気になって当然だ。私は武くんを安心させるように、微笑んでみせる。
「あんまりいい噂聞かない先生っスけど、先輩に嫌な思いさせたりしてねーよな?」
武くんは心配そうに眉を寄せて、私の顔をのぞきこむ。
「大丈夫だよ。先生はすごく優しいし、私も先生のこと信頼してる。シャマル先生は、ただの女好きとかじゃないよ。……少なくとも私の前では」
それを聞いた武くんは、まだ納得はしていない、といった表情を浮かべた。
「……でも、気ーつけて下さい。もし何かあったら、オレに電話してほしいっス。何があっても駆けつけるから」
純粋に私を案じてくれる瞳に、心があたたかくなった。やっぱり武くんは優しい。
「ありがとう。そう言ってくれて、ほんとにうれしい」
私のその言葉が、終わるか否かという時だった。
突然、ガラッという乱暴な音を立てて、美術室の扉が開いた。
驚いてそちらに目をやると、そこにはあの銀髪くんが立っていた。
「……おー、獄寺。どした?」
武くんが、少し残念そうに銀髪くんを見やる。
来てほしくなかった、みたいな言い方に、少しだけ首を傾ける。
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