勿忘草の心


□4.変化
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*****

ようやく今日の仕事が終わった。肩を回しながら、オレが校門を出たまさにその時だった。
携帯を見ながら歩く見慣れた姿に、足が止まる。
「! 七花……」
並中保健医であるオレは、並高にも時々顔を出す。
建前はボンゴレの業務だが、実際の目的はこの少女だった。
並高の保健室に行くと、たまにベッドに座っている少女。目が合えば、いつも『シャマル先生!』と満面の笑みを浮かべてくれる。
きっと自分は、この子を治療したくて高校まで足をのばしている
そう気付くまでに時間はかからなかった。
「七花」
呼べば、ほら。笑顔で駆け寄ってきてくれる。
「シャマル先生!」
オレは抱きしめたい衝動をこらえて、七花の髪をなでてやる。さわり心地のいいふんわりとした髪。
……と、オレは彼女の左手首にいつもの包帯がないことに気付いた。
「包帯はどうしたんだ?」
「あ……その、えっと……外れちゃって。自分じゃ上手く巻けなかったから、そのまま」
見ればまた新しい傷が増えている。オレはそっと七花の左手をとって、袖を捲り上げた。
「……また切ったんだな」
「…………うん」
「そろそろ腕まで来ちまうぜ?」
以前見た時は、手首に10本ほどの傷しかなかった。
それが今は20本近くに増え、範囲は腕の方にまで伸びている。
「この跡からして……切ったのは一昨日あたりか?」
「うん。さすがシャマル先生」
七花は何でもないことのように笑う。
それでも、すべてを知っているオレには、その笑顔が泣き顔に見えて仕方ない。
「……とにかく、消毒するから家に来い」
「はーい」
もう保健室は鍵が閉められていて入れない。今からわざわざ職員室まで行って鍵を取り、また保健室に行くよりは、家に来た方が近い。
オレが髪をくしゃっとなでてそう言うと、七花はふざけて腕を組んできた。
……こういうことを平気でできるから、女子高生は怖い。こちらの理性とか期待とか、そんなことにはまったく考えが及ばないのだから。
ま、オレはめちゃめちゃ紳士だから問題ねーけどな。
「ほんとはね、今日バレーボールの授業、痛くて仕方なかったの。ボールをトスするたびに、傷と体操服がこすれちゃうから」
「そりゃあそうだろーよ、そんだけ切ればな。……で、今回の理由は何だ?」
尋ねれば、七花は切なそうに微笑んだ。
「もうすぐ、亮斗くんの命日だから」
……だろうと思った。
おおかた予想はついてたが、改めて本人の口から聞くと辛いものがある。
なあ…………桜庭亮斗。
オレはお前を知らねーけどな、いつまで七花を縛りつけておく気なんだよ。
「先生の家、3ヶ月ぶりくらい?」
七花は無邪気に笑いながら、オレのマンションのエレベーターホールに入る。ボタンを押して到着を待ち、楽しそうに指折り数えている。
「最後は終業式だったから、3ヶ月ちょっとってとこだな」
「そっか。……もうそんなに経つんだね」
七花の声のトーンが急に下がる。
何を考えているかなんて、問う必要もない。
彼女の頭の中は、常に桜庭亮斗でいっぱいだからだ。
それがひどく腹立たしく、虚しく、悲しい。
「シャマル先生、ありがとう。見かけるたびに気にかけてくれて」
七花じゃなけりゃ、気にもとめねーよ。
「知ってるの、先生だけだから。言える人がいて、すごくうれしい」
オレだけが知ってる優越感と、オレだけが知らされた残酷な現実。
「……やっぱり家族にも言えねーか?」
「……うん。よけいな心配かけたくないから。それにきっと、理解してもらえない」
オレだって理解したくなかったよ。わかっちまうから、こっちはよけいに苦しい。
こんなこと、七花はこれっぽっちも気付いてねーんだろうな。
エレベーターを下りると、慣れた足取りでオレの部屋に向かう七花。
彼女がここに来るのは、もう何回目だろう。そのたびにオレは、彼女の治療をしてる。
そのたびにオレは、桜庭亮斗に嫉妬してる。
「シャマル先生」
「ん?」
「いつもありがとう。それから……いつも、ごめんね。先生は保健医なんだから、“治す”のが仕事なのに……」
オレは笑って、家の鍵を開けた。
しゅんとする七花の頭をなでて、いつものように言ってやる。
「カウンセリングだと思えばいいだろ? 心の傷を“治す”仕事だ」
こう言えば、お前は笑ってくれるから。
「先生……本当に、ありがとう」




せめて跡が残らないように、消毒して血の色は消しておくから。
それでもお前はまた自分を傷つけるだろうけど。
何度でもオレが、お前を治すから。
だから七花、生きて、くれよ。


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