勿忘草の心


□4.変化
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もう6月も末のある日のことだった。
私が応接室に行くと、恭弥くんは珍しく、ちらっとこちらに顔を向けた。いつもは机の上に視線を向けたまま、風紀の話を切り出すのに。
窓から入ってくるのは、新緑がまぶしい初夏の風。さわやかな空気が私と恭弥くんの髪を揺らす。
「……今日の並高の風紀は?」
「いつもと変わりないよ。問題ないって」
「……そう」
何だろう。いつもの恭弥くんと違って、やけに切れがない言い方だ。
「恭弥くん、どうかした?」
私が尋ねると、恭弥くんは書類にペンを走らせながら、逆に問いかけてきた。
「君の校則違反のネックレス、なんでそんなに大事にしてるの?」
私はこのときようやく気付いた。
恭弥くんはずっとそれが気になっていたのだ。
衝撃の出会いから約2ヶ月、私は休日以外毎日のように応接室に来ている。
そこで交わされたいくつもの会話を思い出せば、納得がいく結論だ。

なぜならあるときは、
『今日の風紀は?』
『問題ないって、佐伯くんが言ってたよ』
『佐伯って誰』
『え、恭弥くん並高の風紀委員長の名前も知らないの?』
『そんなのどうでもいいよ。それより問題は、君が校則違反してることでしょ』
『……ごめんね』

またあるときは、
『今日の並高の風紀は?』
『乱れ気味みたい。校則違反の髪染め、制服、他校鞄合わせて8人だって』
『ふぅん。……で、その8人に君は入ってないんでしょ?』
『うっ……』
『いい加減外さないと咬み殺すよ』
『だから、いいよって言ってるのに』
『……』

そしてついこの間、
『ちょっと起きてよ七花』
『……ん……? あ、恭弥くん……ごめんね、寝ちゃって』
『うなされてるんだけど』
『……ちょっと嫌な夢見ちゃった。起こしてくれてありがとう』
『……別に。寝てるときまで君はそれ外さないの?』
『うん……。外さない』
『…………』

こんなことが続けば、恭弥くんでなくともこのペンダントが気になって当然だろう。
私は迷ったけれど、まっすぐな恭弥くんの眼に根負けして苦笑した。
「……大切な人の欠片だから、かな」
恭弥くんはわずかに眉をひそめて繰り返す。
「欠片?」
「そう。欠片」
私はブラウスのボタンを一つ外して、ペンダントを取り出した。ハートの形をかたどった、小さなロケットペンダント。
銀色に光る、私の大切なお守り。
「これ、ロケットペンダントなの」
「ロケット? その銀色のって飛ぶの?」
並盛の支配者とは思えない台詞に、私は微笑んでしまう。
恭弥くんが女の子の持ち物に疎いことは想像できたけれど、こうも実感させられると笑みを禁じえない。
「飛ばないよ。これは中が開くようになってて、好きな写真とかを入れられるの」
「それがロケットペン…………なんとか?」
私はうなずいた。ちょっとかわいいな、とさえ思った。
でも。
「七花も写真入れてるの?」
私は、今度の問いには答えられなかった。
それから何も、言えなくなった。だって何て言えばいいのかわからない。首を動かすこともできない。
イエスを示してもノーを示しても、亮斗くんのことを語ることになるから。
――――――話したくない。
言葉にできない。言葉にしたくない。
そんなに軽々しく口にできる思いじゃないから。
私は一生懸命笑みを作って、曖昧に答えをごまかした。
「……ごめん、恭弥くん。私今日は帰っていいかな?」
恭弥くんはしばらく何も言わずに私の目を見ていた。
コチ、コチ、コチ。
応接室の時計が刻む、秒針の音が響く。
「……」
「……」
今までここに来て、こんなに気まずさを感じたことはなかった。私は、見付けてしまった小さな綻びから目をそらし、必死に恭弥くんの目を見つめ返した。
それだけで精一杯だった。
「……七花、君いつも包帯巻いてるよね。それとその銀色の、何か関係あるの?」
恭弥くんが立ち上がった。座り心地のよさそうな椅子が、軋んで音を立てる。
近付いてくる恭弥くんとは反対に、私は数歩後退った。
いつかはこの話題に触れなければならないとわかっていたけれど、いざそのときが来ると足がすくんでしまう。
「七花」
恭弥くんはあと一歩、というところで足を止めた。
「僕の質問に答えて」
好奇心、いら立ち、貪欲な獣のように光る黒い瞳。いつもと違う恭弥くんの瞳から、目がそらせない。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
「早く答えないと咬み殺すよ」
殺されるか否かは問題ではなかった。むしろ殺してくれた方が楽だったかもしれない。
亮斗くんを守れるかどうか、私の頭にはそれしかなかった。ただここから逃げ出したくて仕方なかった。
しかし――そんな願いも虚しく、恭弥くんは残りの一歩を踏み出し。
私のすぐ横、ドアに手をついて私の退路を絶ったのだった。
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