勿忘草の心


□2.恋心
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オレがその人を初めて見たのは、満開の桜の下。
春休みの練習がてら、部員何人かで軽い花見に来たときだった。
「やっぱ並盛の桜はいいよな」
「学校に来りゃタダで見れるってのはラッキーかもな」
「昼休み終わる前に、一枚くらいキャッチしてー」
「おま、……小学生かよ」
皆がそんな会話をしているのを横目に、オレは青空を見上げた。
冗談抜きで、並盛の桜はわりと有名らしい。一部の間では名所だって言われてるとか、親父が言ってたからな。
確かに、青空と白い校舎と淡い桜の色合いは、絶妙なバランスだ。
「……?」
景色を見渡していたオレは、その中に一つ、別の色を見つけて目を奪われた。
――並中の隣にある、並高の制服。
膝丈のスカートは清楚感こそあれ、野暮ったさはまったくない。
桜と一緒に風に舞う柔らかそうな髪。
「……あれ誰だ……?」
オレは無意識に小さくつぶやいていた。
だってその人は、桜の樹を慈しむように撫でていて、切ない眼差しを花に向けていて。
やがてその眼から、涙をこぼしたから。
「……」
オレが野球をやっていなかったら、きっと見えなかった。それくらい遠くにその人はいたけど、彼女が纏う雰囲気は強烈にオレを惹き付けた。
凛としていて、でも悲しくて、ひどく儚い雰囲気。
はらり、はらり。
桜が舞う。
はらり、はらり。
涙が落ちる。
……一枚の絵みたいだった。
それくらい浮き世離れして見えたんだ。
他に誰もいない、彼女だけの空間。
他に誰も入れない、彼女だけの時間。
…………オレはかなり長い間、その人を見ていたらしい。
「山本ー。さっきから何ぼーっとしてんだよ」
言われて、はっとして振り返った。
「わりーわりー。何でもねーよ」
――――あの人を、こいつらには見せたくない。
何故だかそう思ったオレは、咄嗟にごまかした。
「そろそろ戻んないとやばくねーか?」
皆が校舎の時計を見上げ、焦ったように走り出した。

刹那。ざっ、と桜吹雪が視界を覆った。

「……っ」
たまらず目を瞑り、開けた時。すでに彼女はいなかった。
彼女がいない、いつもの道。
彼女がいた、いつもの道。
彼女がいない、桜の樹。
彼女が触れていた、桜の樹。

「――……っ!」

瞬間的に、オレの心臓が大きく波打った。
鼓動がおかしい。息がつまる。胸が痛い。顔が熱い。

やばい。

今まで野球一筋だったオレにその衝撃は大きすぎた。でも、自分までごまかすことはできない。
オレはこの時理解した。
名前も知らない、顔もおぼろげにしかわからない、そんなあの人に――オレは、恋をしたんだと。

*****

私は恭弥くんに雑用を命じられてから、毎日中学の応接室に顔を出した。
一回、友達と遊ぶ約束をしていて出られなかったあの日。前もって伝えていたにも関わらず、翌日不機嫌な彼をなだめるのは、それはそれは大変だった。
まぁ、困るのは私ではなく主に草壁くんをはじめとする風紀委員の人たちなんだけれど。

『お願いします鑢さん! お願いですから委員長に顔見せだけでも……!!』

並中風紀委員リーゼント集団に本気で土下座されたら、さすがに気の毒で断れなかった。
雑用と言っても、書類に判を押す手伝いをしたり、時々恭弥くんにお茶をいれてあげたりするくらいだ。
それ以外は毎回『そこのソファに座ってて』と言われるので、彼の目的は若干不明ではあったものの、大人しく座っている。
そうすると草壁くんがお茶を出してくれるというのが常なので、私は雑用というより恭弥くん鎮静剤に近い状態だった。
何でも、私がいると恭弥くんの機嫌が良く、風紀委員への被害が減るんだとか。
恭弥くんがペンを走らせる音を聞きながら、ふかふかのソファでお茶をすすり、時折うたた寝する。
その感覚は嫌いではなくて、結局私は春休みを終え新年度に入っても、恭弥くん鎮静剤の役割を果たしていた。

――そんなこんなで、気付けば4月も末。
今日も私は放課後応接室で恭弥くんの判子押しを手伝い、校舎を後にしていた。
まっすぐ家に帰ろうかと思ったが、別の考えがよぎった。
……あの桜は、まだ咲いているだろうか。
ちょうど一月ほど前。恭弥くん用のお茶の買い出しを済ませた後、偶然見付けた一本の桜の樹。
並盛中学の校庭に沿って、満開をむかえた桜たちが花吹雪を散らしている中。その桜は校門の近く、一本だけ少し離れた場所で咲いていた。
その樹の寂しさが、私には、特別美しく見えた。
そして同時に、重ねてしまった。
新月のように深い瞳を持ち、太陽のように明るく皆を照らしてくれた亮斗くんと。
思わず触れずにはいられなかったあの桜。
さすがに一月も経てば散っているだろうが、私は無性にもう一度見たくなった。
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