勿忘草の心3

□19.救済
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誰の声も聞きたくなかった。
何も見たくなかった。
何も考えたくなかった。
私は机のペンダントを胸に抱きしめて、小さく身体を丸めた。ベッドの上、膝を抱えて目を閉じる。
ずっと、ただ、そうしていた。
横で手紙を見たシャマル先生が、誰かに電話をしていた。
どうでもよかった。
息をひそめて、ペンダントだけを感じ取る。
全ての音を遮断したい。全ての映像を排除したい。
嗅覚も味覚もいらない。
このペンダントを握る指先の感覚だけがあればいい。
身体を丸めた私に、先生はいつもと同じ一言をかけた。

「…………何か欲しいもの、あるか?」

ほしい、もの。
私はのろのろと顔を上げ、ホワイトボードに歪んだ文字を記した。
【パソコンとヘッドホンを自宅から取ってきていただけますか?】
「わかった」
先生が誰かに電話をして、何かを指示している。
もう、このホワイトボードも必要ない。
私は再び身体を小さく丸めた。
時間の進みはわからない。
やがてガタガタと音がして、誰かが病室に入ってきた。
「七花、届いた」
先生の声に、運ばれてきたパソコンを確認した。いつも使っている私のそれだ。
ヘッドホンもお願いした通り付いていて、安心した。
私は動きたくない身体に鞭打って、なんとかパソコンとヘッドホンをベッド横のチェストに運んだ。
パソコンを起動して、適当な音楽サイトを検索する。ヘッドホンを耳に付けて、ペンダントを握りしめて、ベッドに横になる。
「……」
やっと、呼吸ができた気がした。
私は普段、音楽をあまり聞かない。仕事に行くまでの通勤時間にも、歌を聴くという習慣はなかった。
このヘッドホンも、ほとんど使ったことはない。それがこんなところで役に立つとは思わなかった。
自分の声が出なくなって、誰の声も聞きたくなくなって、初めてその存在に思い至ったのだ。
視覚は目を閉じれば消せるけれど、目を閉じると聴覚が鋭敏になる。どうにかして“音”を消し去りたかった。私に関わる全てのものから遠ざかりたくて、最初はヘッドホンだけしていればいいかと考えた。しかし、ヘッドホン越しに聞こえる先生の声や誰かの足音は、私と外界を繋いでしまう。誰か知らない人の、関係ない人の、声を、音を必要とした時、初めて“歌”を聞きたいと思った。
ヘッドホンとそこから流れる音楽が、世界と私とを分断してくれる。
パソコンを操作することなく、おすすめに従ってどんどん歌を聞いていく。一曲終われば勝手に次の曲が流れてくれるサイトで助かった。
私はベッドの中でも身体を縮めて、ただ、曲を聴き続けた。
ヒットソングメドレーから知らない歌まで、流れるままに聴き続けた。
明るい曲があった。
楽しい曲があった。
面白い曲があった。
もしも私がみんなと笑っていられたなら、この曲を流しながら遊べたのかもしれない。
悲しい曲があった。
切ない曲があった。
苦しい曲があった。
嘆きの曲があった。
叫びの曲があった。
別れの曲があった。
涙の曲があった。
恋の曲があった。
悲恋の曲があった。
片思いの曲があった。
両思いと思しき曲があった。
愛の曲があった。
生命の曲があった。
私の代わりに、誰かが歌って叫んでくれていた。
私の声がなくても、それで充分だった。
目を閉じて曲を流し続けた。
気付いたら眠っていて、翌朝目覚めても私は歌を聴き続けた。
昼になっても聞き続けた。意識のある間はずっと聴いていた。
ある時、不意にヘッドホンが外された。
困ったようなシャマル先生の顔に、私は瞬きを返す。
「……腹減ったろ? 何か食いたいもんねーか?」
私はゆっくり首を横に振る。
お腹はたぶん空いている。でも、何かを摂取しようと思えなかった。
ヘッドホンをして、ベッドに横になり、目を閉じて、また歌を聞き始める。
いつの間にか夜になっていて、机にミネラルウォーターのペットボトルが置いてあることに気付く。
喉が乾いたかどうかも、よくわからなかった。とりあえず手を伸ばして口を付けた瞬間、むせて咳が止まらなくなった。ヘッドホンを投げ捨てるようにして、襟元を掻きむしる。
「げほげほげほっ、ごほっ、ごほごほ、けほ……っ」
「っ七花!!」
先生が背中をさすってくれる。
「ごほごほっ、げほっ、かは……っ、」
吐くかと思った。呼吸困難になるほど咳を繰り返したせいで、目尻に滲んだ生理的な涙を拭った。汚れた口元も、ごしごしと袖で擦る。
心配してくれる先生に、大丈夫です、と言ったつもりが声になっていなくてもどかしい。
「…………」
まぁ、これが罰なら、それでいい。
私は落ちてしまったヘッドホンを拾い上げ、再び耳にセットした。
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