勿忘草の心3

□7.理由
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ザンザスさんの部屋の入り口、ドアを背に立ったまま、私は硬直していた。
「本当に欲しい女を抱いたらどんな気分になるのか…………七花、オレに教えろ」
ザンザスさんはソファに座ってこちらを見たまま、そう言う。距離はじゅうぶんにあるのに、私は今すぐ逃げ出したい気分だった。
待って、打開策を。私の脳の処理速度限界まで回して。
「ザンザスさんは…………私のこと、…………好き、なんですか…………?」
「ああ」
躊躇いのない答えに、こちらがたじろいでしまう。
「…………この十年、ほとんど会わなかったのに……?」
ザンザスさんはウイスキーの入ったグラスを持って、長い足を組んで座っている。
それだけですごく格好いい。
グラスの中の氷が、カランと音を立てた。
ザンザスさんはぽつりと呟く。
「会いに行かなかった」
「……? 会いたくないのに、好き、なんですか?」
「違ぇ。会いたかった」
駄目だ。私にはこの人が何を考えているのかわからない。
白旗をあげて、逃亡したい。
「……てめーはオレを忘れねぇと言った。オレにはそれで充分だった。会いに行けば…………オレは七花を無理矢理オレのものにする。それじゃあ満たされねーのは、経験上知ってる」
これは、……その、私に無理強いしてしまいそうな自分を律していてくれていた、ということだろうか。
だとしても、だ。
「私はザンザスさんを忘れたり、してないです」
「だろーな」
「でも…………ザンザスさんみたいに格好いい人が、女の人なんて選り取りみどりの人が、私みたいな凡人を十年も好きでいる理由が、わかりません」
ザンザスさんがゆっくり立ち上がった。
私はびくっとして息を呑む。
「オレにもわからねぇ。だから、知りに来た」
短い黒髪に黒いシャツ、なのに紅い瞳だけが異様に目を引く。
悠々と闊歩して近付いてくる覇者に、私は後退りしようとしてドアにぶつかる。
逃げ場はもうない。でも、このドアを開ければ逃げ出せる。
ただドアを開けるだけ。
ごめんなさいと告げて、ドアを開けるだけ。
けれど。
「……っ、ザンザスさん、そこで止まってください!」
ザンザスさんが歩みを止めた。
私は胸元のペンダントに恥じない生き方をすると誓った。逃げないと決めた。ここで逃げてザンザスさんとの問題を先送りにしたって、何一つ解決しない。
そんなのは、私の誇れる生き方じゃない。
「…………オレじゃ不満か」
「…………そういう問題じゃ、ないんです」
会話でお互いを知ることしか、私たちにはできない。
なら、意思の疎通を諦めてはいけない。
「……初めてが怖い、ってヤツか」
「……それもありますけど」
「何が怖い。痛みなんてオレは感じさせねぇ」
「いえ、その、痛いのは嫌ですけど……………………そういう問題じゃ、ないんです」
ザンザスさんが言うんだから、本当に彼は痛みなんて感じさせずにできるんだろう。経験したことのない私にはわからないけれど、多分気持ち良いんだろう。
でも、私が本当に怖いのは未知の経験でも痛みでもない。
亮斗くんの居場所を失ってしまうことだ。
ザンザスさんが、再び歩みを進める。
「待って……!」
「オレは充分待った」
今度は、私の制止を振り切って。
「……っ!」
目の前に立たれて、背筋が冷えた。
ザンザスさんは瞳の奥の熱を隠そうともせず、ドアに左手をつく。
「七花の基準では、恋人とやらにならねーと抱けねぇと聞いた。だからオレは待った。…………十年、待った」
「!」
怖い。……怖い……!
私たちにはもう距離がない。ザンザスさんがドアに手をついた時点で私に逃げ場はなくなった。
空いている右手で、ザンザスさんが私の顎を持ち上げる。
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