金木犀の唄

□山吹色
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その日、オレのクラスに教育実習の先生が来た。
「皆さん、今日から3週間教育実習でお世話になる橘亜希子です! 皆と仲良くなりたいので、気軽に話しかけて下さい」
にっこり笑って元気に挨拶したその女の人は、とても輝いて見えた。
明るくて、ぱあっと桜が花開くような笑顔。薔薇とかそういう大きい花じゃなくて、小さいけど品のある、華やかな花を彷彿とさせる笑顔。
クラスの誰かが質問した。
「橘先生の担当教科は何ですかー?」
「音楽でーす! 皆、声楽は好き?」
途端に騒がしくなる教室。
「あたし好きー!」
「私も」
「俺苦手だけど、亜希子ちゃんが教えてくれんならがんばるー!」
「あ、オレもオレもー!」
それから先生の呼び方は、あっという間に“亜希子ちゃん”で定着した。特にクラスの男子は、憧れの眼差しで先生を見てる。
年齢はざっと20代前半で、大人びた焦げ茶色の髪。大きな茶色い瞳はあったかい笑みで満たされてて、小さな艶めいた唇は優しく弧を描く。
隣の席の女子が言った。
「キレーな先生だね!」
「憧れちゃうー」
オレたち中学生にとって、大人の女の人はそれだけで綺麗に見えるし、なんていうか……オーラがある。
かくいうオレも、先生から目を離せずにいた。
「亜希子ちゃん、好きな色は?」
「んー、ピンクかな」
「じゃあじゃあ、好きな男のタイプは!?」
「こーら! いくら質問タイムだからって、そんなマセた質問は禁止!」
先生は明るくて、すぐにクラスに馴染んだ。
でもなんでだろう。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、胸の奥がもやっとする。
「あ、皆! ホームルームはここまで。もう次の授業でしょ? 今日は5時間目に授業で会えるから、皆の歌声楽しみにしてるね!」

去って行った先生を、オレはいつまでも見つめていた。

*****

煙草の煙が風に流されていくのを見ながら、オレはぼんやり屋上のフェンスにもたれかかっていた。
10代目たちは数学の授業を受けていらっしゃる頃だ。やる気がしなくてサボりに来たオレだが、なんだか煙草の味もよくわからない。オレも煙草も、やる気がまったくねー感じだ。
そんな時だった。
「うわぁー」
屋上のドアが開いて、出し抜けに明るい声が響いた。聞いたことのない女の声だ。
オレは誰かと思って振り向いて、固まった。
「キミ、獄寺隼人くんでしょ? ホームルームにいなかったのキミだけだから、覚えちゃった」
そう言って笑った女は、教師、みたいだった。歳は二十歳そこそこ、美人というよりは可愛い笑顔の女だ。
クラスの女やイタリアで会った女とは違う“大人のジャッポネーゼ”に、少しだけ胸がとくんと鳴った。
「はーい、未成年の煙草は禁止! っていうか、私が煙草嫌いだから煙草禁止!」
オレは自分の手から煙草が取られて、胸ポケットに入っていた残りを箱ごと取られても、動けなかった。取られたことにすら、気付いていなかった。
いたずらっぽい笑みに、目も神経も心も、吸い寄せられて。
「あれ? どしたの? キミ、獄寺隼人くんだよね?」
その唇が、優しい声が、オレの名前を呼ぶ。
――刹那、オレの頬がかあっと熱を帯びた。
誰だてめー何しやがったオレに指図すんなよ名前教えろ、……ちくしょう、顔が熱ぃ。
心臓がばくばく鳴って、わけのわからない気持ちが込み上げてきて、高揚感が頭の中を支配する。
やっとこさオレの口から出てきたのは、ぶしつけな質問。
「お前……誰だよ」
女は笑ってオレの頬をつついた。
「私はキミのクラスの教育実習の先生、橘亜希子!」
橘、亜希子。その名前はオレの頭にしっかりすりこまれた。
「顔赤いけど、大丈夫?」
「っ、へ、平気だっ」
何だコレ何だコレ何だコレ。
どうしたんだ、オレ。上手くしゃべれねえ。
彼女の手を振り払ったものの、顔の熱は一向におさまる気配がない。
言いたいことがあるわけじゃないけれど、もっと話していたい。言えないけれど、本当はもっと長く触れていてほしかった。
「獄寺くんはさ」
「な、何だよ」
「音楽好き?」
彼女が話しかけてくれた。
どきん、
オレは高鳴る心臓に知らんぷりをきめこんで、目をそらす。
「……だったら何だってんだよ」
「私、担当教科が声楽なの! だから音楽好きだったらうれしいなーって思って」
とくん、とくん。
彼女が微笑むたびに胸がざわめく。初めての経験に、オレは戸惑いを隠せない。
「……嫌いじゃねーよ」
口から出るのは素直じゃない言葉ばっかりだけど、彼女はそれすら柳のように受け流す。
「よかった!」
ここで会話を終わらせたくなかったオレは、目をそらしたまま問いかけた。
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