月見草の恋

□机上の空論を並べるよりも現状を正しく見極めろ
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オレが任務から帰ると、葵が抱きついてきた。
「すく、おかえり!」
「あ゛ぁ」
葵の後ろに立って、壁に体を預けながらこっちを睨むのは、言わずもがな邦枝翔だ。
「……葵、俺よりそいつがいいのか?」
途端に葵は、首を横に振る。
「違うよ。お兄ちゃんがいい」
いつもなら、ここで兄貴に抱きつきに行ったんだろう。しかし今日の葵は、オレの腰にしがみついたままだった。
「どうしたぁ?」
「…………あのね、お兄ちゃん」
オレの質問には答えず、しかしオレに抱きついたまま、葵は続ける。
「お兄ちゃんが特別だよ。でも、すくはお兄ちゃんに似てて安心できるの。……でもすくは、お兄ちゃんとちょっと違う。……でもやっぱり、すく、すき」

どきん、

不覚にも胸がざわついた。何なんだ、この胸の高鳴りは。
――『すく、すき』。
何度となく繰り返された言葉。
葵の言う“すき”に、大した意味は込められていないはずだ。そもそもオレになついたのだって、兄貴に似ていたから。
その兄貴がいる今、オレを必要とするはずがない。
なのに葵は、確かにオレに抱きついたまま、邦枝翔を見つめている。
数瞬、沈黙が流れた。
「……葵、おいで」
邦枝翔が、葵を呼んだ。葵はオレの方を切なげな目で見た後、おとなしく兄貴のところへ歩いて行く。
……オレの頭は、さっきからおかしくなっちまったようだ。
葵の眼差しが、直接心臓の鼓動を加速させる。触れられていた場所が、隊服越しにも熱い。
前にも同じことを思った気がする。
こいつはザンザスのお気に入りで、兄に似ているから慕われているだけだと。小さい手も非力ながらに抱きついてくる腕も、オレのものではないのだと。
「葵は俺を捨てて、あのロン毛を取るのか?」
「違う、違うよお兄ちゃん。私、よくわかんない。おーじに好きって言われたけど、たけしに特別にしてって言われたけど、それはわかんないの。でもね、すくはわかるの。安心できるの」
――胸が、熱い。顔が、熱い。こんな歳になって、こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。
葵はわからないなりに、オレを“特別”だと言ってくれているのだ。兄とは違う“特別”だと。
オレは願わくば、それが恋愛感情であってほしいと思ってしまった。
今までなんだかんだと理由をつけて逃げてきた。自分に言い訳をしてきた。
相手は十も年下だとか、ザンザスのお気に入りだとか。
でももう、言い訳はできない。はじめからオレは、こいつの目に囚われていたんだ。
ベルが相手でも、山本が相手でも関係ねえ。ボスさんが相手だって、葵がオレを選んでくれるなら、どんな暴力にだって耐えられる。
……オレは、葵が好きなんだ。
このちんまい非力なジャッポネーゼを、オレは愛してしまった。認めてしまえば、愛しさが堰を切ったように溢れ出す。
葵は恋を知らない。それは育った特殊な環境故だ。だが、ザンザスに拾われてここに来て、何かが変わった。
兄以外と会話をして、心を開くことを覚えて、葵は成長を始めた。
だからオレは、一度目を閉じて深く息を吐き出し、もう一度目を開けてから、呼んだ。
「――――葵」
「! すく……っ」
葵はぱっと身を翻し、いつもより強くオレに抱きついてきた。
オレも葵をしっかり抱きしめ返してやる。
前方からとてつもない殺気を感じるが、今はそれどころではなかった。
「すく、今日もう出かけない?」
「あ゛ぁ。しばらく任務はねえはずだぁ」
「じゃあ、すくの部屋泊まっていい?」
オレは邦枝翔を見据えた。
「……オレはいいぜぇ」
邦枝翔は、目を細めて腕を組んだ。
「――俺は葵が望むなら何処でも構わない」
この男は、強い。剣士としてもそうだが、短剣や短刀、ナイフといった刀剣類の扱いが異常に巧い。マフィアや殺し屋になれば、瞬く間に名が知られるようになるだろう。
それでもこの男は、そんなことはしない。こいつの全ては、妹を守るためにあるからだ。
ザンザスが書類整理を任せるくらいだというから、恐らく相当に頭もいい。きっと今でも、時折此処を出ては、一般人としての職を探しているのだろう。
つまり此処にとどまっているのは、葵の一時的な衣食住を確保するためにすぎないのだ。
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