月見草の恋

□思考は言語化してはじめて他者に伝わる
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泣きそうな声が、聞こえた。
「ぼす、ぼす、」
オレはゆっくり目を開けて、視線を横にずらす。すると、すがりつくように首に腕が回された。
「……どうした」
オレにこんなことができるのは、世界中でこいつだけだろう。葵はオレの首に抱きついて、頭を何度か横に振る。
「ぼす、ぼす」
か細い声で何度も呼ばれると、何とも言えない気持ちになって、オレは葵を抱きしめ返した。
「どうした」
「ぼす、『すき』って一つじゃないの?」
いきなりの質問に面食らったが、オレは欠伸をこらえつつ頭を働かせ始める。
「……何が言いたい?」
「ぼす、ぼすってこいびといる?」
「いねえ」
色恋沙汰とは一番縁が遠いと思っていたが、そうでもないのか?
いくら頭を動かしたところで、オレには葵の言わんとしているところがさっぱり見えなかった。
葵は若干混乱した様子で、オレにすがりつく。
「ぼす、こいびとにする特別って何? 『好き』って何?」
続けられる問いの波。
「『こくはく』って何? たった一人にしか『好き』は言っちゃダメなの?」
ここに来てから初めて、葵が動揺を見せた。しかしこいつが尋ねている内容は、それこそ小学生が抱くような疑問だ。二十歳過ぎて他者に訊くものか?
オレはとりあえず葵の顎に手をやって、顔をこちらに向けさせた。かすかに寄せられた眉と揺れる瞳からは、どうしたらいいのかわからない、という思いが見てとれる。
オレは葵の目を見ながら、静かに問う。
「……葵。お前は今、何歳だ?」
「……22歳」
「何が知りたい?」
葵が一度、口を閉ざした。そのまましばらく沈黙が続く。
どうせ頭の中で、聞きたいことがまとまらないのだろう。
オレは質問を変えた。
「何でそれを知りたいと思った?」
すると、葵の目がオレの目の奥をのぞきこんだ。
「たけしに、特別にしてって言われた。おーじに、『好き』って言われた。でも、それは『すき』じゃなくて『こくはく』だって、るっすが言ってた。たった一人にしか言っちゃダメな『好き』って何?」
葵が懸命に伝えようとするのを見て、オレは目を細めた。
ボンゴレの雨の守護者。葵を連れ去った雲の守護者。それにベル。
まぁ予想の範囲内のヤツらだ。
オレとしては、葵が傍にいればそれでいい。主人であるオレが認められる程度の男、という前提の上ならば、誰とどういう仲になろうとかまわない。
しかし、葵の精神状態に支障を来すというならば、話は別だ。
「葵……お前、誰かに惚れたことがねーだろう」
葵は少しうれしそうに、首を縦に動かした。今までそれを理解してもらえなかったせいか、ひどく安心した様子に戻る。
再びオレに抱きついてきたが、それはいつものじゃれつくような軽いものだった。
「ぼす、ありがと。私の言いたいことわかってくれたの、ぼすだけ」
「……オレを誰だと思ってる」
「えへへ。ぼす、すき!」
この歳で恋の一つもしたことのない女など、初めて見た。オレもかすかな戸惑いを覚える。
最初から感じていた。葵には一切の汚れがない。体も心も、不自然なほどに純粋無垢だ。
よく“純白”という表現は聞くが、葵は澄んだ漆黒。
そのくせ人に懐きやすく、愛される。誰一人汚すことのできない、黒く気高い猫。
だが、オレにはいまだに拭えない違和感があった。葵には、人間として持ち合わせているはずの、いくつかの感情が欠如している。
それは邪悪であり嫉妬であり、人が“負”と呼ぶ感情だ。さらに、恋情という“正”とされる感情も。
それらの感情の欠如が、無垢につながるのだ。
何故、こんなにも欠落している?
どうやって生きてきたら、それらの感情を知らずに育つ?
オレにはそれだけがわからなかった。
「……葵、」
オレがその理由を尋ねようとした時だった。
「ぼす、お礼」
そう言って葵は、オレの唇に口づけを落とした。
一瞬思考が停止する。
「…………何の、真似だ?」
「お礼。お兄ちゃんに教えてもらったの。これが『ありがとう』で、『キス』っていうんだって」
――――――兄。
葵の謎の全ての鍵は、そいつが握っている。
そしてオレが、その“兄”について尋ねようとした、まさにその刹那――――。

「――――!」

殺気が部屋に満ち溢れた。
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