勿忘草の心3

□16.許可
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スっくんを待っている間に、ひょっこりベルくんが顔をのぞかせた。
「……七花、元気?」
私はうなずく。
「……………………オレ、ボスが泣いてるとこ、初めて見た」
そうなのか。確かにザンザスさんが泣くところは見たことがないし、想像もできない。
「…………ボスが、オレも、会えばわかるって」
ベルくんにしては珍しく、距離を保ったままの会話。
彼は何が言いたいのだろう。
私はスっくんを待っているのであって、ベルくんと話すことなど何もない。
【何か用事?】
ホワイトボードを見せると、ベルくんの動きが固まった。
【シャマル先生なら今はいないよ】
いつもは弧を描くベルくんの唇が、震えた。
「……オレ、………………七花が心配で、」
ホワイトボードに事実だけを綴る。
【なら、心配しないで。私は見ての通りどこも悪くないよ。声が出ないだけ】
ホワイトボード、もう一枚用意してもらおうかな。同じ言葉を返すのは無駄な気がする。でも、シャマル先生にこれ以上お願いなんてできない。
そうだ。これから会う人みんなに同じ説明をするくらいなら、スケッチブックに書いておこう。
未使用のスケッチブックがあったので、それをめくってマーカーで書く。
どれも書き飽きた文字たちだ。
【私は大丈夫】
【何か用事?】
【もう、過ぎたことだから】
【心配しないで】
一頁に一言ずつ書いて、満足した。
これをめくっていれば会話は成立する。なんだか受験生の英単語帳みたいだと思って、少し笑ってしまった。
「…………七花、」
泣きそうな声のベルくんに、スケッチブックの二頁目を見せる。
【何か用事?】
「…………っ!」
ベルくんは唇を噛み締めて、ドアにぶつかるようにして病室を出て行った。
私に用事があったわけではないらしい。
それより早く、スっくんに会いたい。訊きたい。スっくんなら、私に何か望んでくれるかもしれないから。
期待、とは違う。期待とか希望とか、そういうものがどんな感覚かなんてもうわからない。
スっくんも私に意味を与えてくれないなら、別の人を探すだけだ。私の知り合いにいなければ、見知らぬ他人に訊くだけだ。
今の世の中、街に出れば知らない人でもナンパや勧誘等で声をかけてくれる。焦ることはない。誰かの役に立って、贖える日は必ずくる。
「……」
ペンダントに手を伸ばし、てのひらに乗せる。
一度胸元で祈るように抱きしめてから、また机に戻した。これだけは、何故か毎日の習慣になっている。
以前の私は、心、がなくなったら生きていけなくなるんじゃないかと思っていた。どうやら実際は、そうでもないらしい。
感情がないと、これだけ穏やかに生きられるなんて知らなかった。
今までの自分がどれだけ不器用だったのか、思い返しておかしくなってきた。どれだけ馬鹿みたいに泣いて苦しんできたのだろう。他人事の今だからこそ、無意味な苦痛が滑稽に見える。どうしてあの頃の私はあんなに辛いと思っていたのだろう。
出ない声で、くつくつ嗤った。
あ、これ、腹筋が鍛えられてる。お腹に触れたら、小さく鳴った。
そう言えば、昨日残してしまったスープがあった。冷たくても、飲みたい。
「……」
ずず、とスープを啜る。
愚かだった私。弱かった私。無力だと自覚していなかった私。
だけどもう、何も感じない。何もわからない。わからなければ不自由だとも思わない。
究極の自由だった。私は今、かつてない自由を手にしているのだ。
もし声が出るなら、高笑いしていたんじゃないかというくらいの開放感に満たされている。
なのに、どうしてだろう。
昨日よりも、スープの味が薄い気がした。
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